134 気分は野生と養殖

 10匹のマウスの死体に残された臓器を一つ一つ取り出した所で今日の解剖は終了となり、僕はヤミ子先輩の指示に従ってマウスの死体と臓器を真っ黒なごみ袋へと片づけた。


 マウスの体液や排泄物が付着したキムタオルと新聞紙を足元のごみ箱に捨てると、僕は使用したピンセットやハサミをまとめて流し台で洗浄した。


 紀伊教授は仕事のため一足先に実験動物センターを立ち去り、全ての器具を洗浄してケースに戻した僕はヤミ子先輩が清掃している実験テーブルを見た。


 先輩は2つ並べられたテーブルの片方にアルコールを散布した上でキムタオルで拭いており、もう片方は濡れていないのでこれから拭くようだった。


「先輩、そっちの机拭いときますね」

「待って。ちょっと確認したいことがあるから」


 先輩はちょうど机を拭き終えた所で、使用したキムタオルを足元のごみ箱に捨てるともう一方の机に顔を近づけて凝視し始めた。



「…………」

「えーと、何か探し物ですか?」


 何気なく聞くと、



「マウスの毛とか肉片とか、落ちてないか確かめてるの。見つけたらピンセットで拾ってそこの袋に入れなきゃいけないから」


 テーブルの表面を見つめたまま先輩はそう答えた。



「へえ、ここの施設は結構厳しいんですね……」

「白神君、そういう意味じゃないよ」


 深く考えずに答えた僕に、ヤミ子先輩は静かな口調でそう言った。



「えっ?」

「あのマウスは病理学教室がお金を出して業者から買ったものだけど、だから単なる実験の道具と見なしていいなんて私は思わない。生きるために動物を殺すのは人間にとって仕方のないことだけど、実験用のマウスは人間の手でやされてずっと檻の中で育てられて、そのまま命を奪われるんだよ。動物を養殖して実験に使うっていうのは猟師さんが害獣を撃ち殺したり、サバンナの部族が食べるために草食動物を狩猟したりするのとは根本的に違うと思う」

「…………」


 そう話した先輩の表情は、これまで見たことのない真剣なものだった。



「だから私はマウスの一つの毛も肉片も医療廃棄物として捨てたくない。自己満足かも知れないけど、できるだけ全部拾って火葬してあげなきゃいけないの。……それが、実験動物の命を奪う私たちの最低限のマナーだと思う」


 そこまで言うと先輩はスプレーでテーブル上にアルコールを散布し、キムタオルで綺麗に拭いた。


 それからテーブルの下にある床を見渡すと先輩はよし、と言ってマウスの死体と臓器が入ったごみ袋の口を括った。



「流石はヤミ子ちゃん。私は動物の解剖なんてできないけど、動物実験をする人は皆これぐらいの意識を持つべきだと思うわ」


 一連の様子を眺めていた野上さんが和やかにそう言った。


「ええ、僕もヤミ子先輩のご意見には全面的に同意します。動物実験と簡単に言っても、動物を養殖して殺すというのにはそれだけの重みがあるんですね」

「うん。あくまで私の意見に過ぎないけど、野生の動物を殺すのと養殖した動物を殺すのは同じように見えて全然違う行為だと思う。この辺りのテーマはまた今度詳しく話しましょ」


 先輩はそう言うと解剖室の照明を消し、僕らは実験動物センターを後にした。



 マウスの死体や臓器が入った袋はヤミ子先輩が持ち運び、センターの入り口にある冷凍機能付きのボックスに納めていた。


 このボックスに保管された実験動物の亡骸は後日まとめて火葬され、その魂は毎年行われる実験動物慰霊祭でとむらわれるという。



「私も去年からは毎年慰霊祭に出ることにしてるの。30分ぐらいで終わる簡単な儀式だけど、この教室で動物実験をする限り私は毎年必ず参列するつもり」


 研究棟へと歩きながらそう話した先輩はいつもよりずっと大人びて見えた。


 普段の軽いノリからは想像もつかなかった研究者としてのヤミ子先輩の姿に、



「……慰霊祭の日程、僕にも教えて貰えませんか?」


 僕は研究医を目指す学生として、強く惹かれるものを感じた。

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