133 気分はマウス解剖

 それからすぐにマウスの飼育室に移動して紀伊教授は毒性のある薬物を、ヤミ子先輩は生理食塩水をそれぞれマウスに注射した。


 ヤミ子先輩が行っている実験の詳細は聞いていないが同じ条件で飼育しているマウスの一部には毒性のある薬物を、一部には生理食塩水を投与することで実験群と対照群を比較できるようにするのだという。


 対照実験については1回生の教養科目の頃から学んでいたが、僕自身は実験の内容よりも飼育箱内で活発に動き回るマウスの尻尾を正確に掴み優しく瞬時に捕まえるヤミ子先輩の手際の良さに感嘆していた。


 人生で初めてまともに見るマウスは予想よりもずっとかわいらしく、飼育室に何人もの人間が入ってくると驚いて飼育箱の中をちょこまかと走り回っていた。


 かわいいマウスが紀伊教授やヤミ子先輩の手で飼育箱から拾い上げられ持ち上げられたまま腹部の皮膚に針で注射される姿には見ていて痛ましい思いがしたが、注射された後も飼育箱の中で元気に走り回っているのを見て少し安心できた。



 ちなみに動物実験に用いられるマウスはたいてい実験用に遺伝子を操作されており、万が一実験室からマウスが逃げ出したりすると生態系への影響という観点から大変なことになる。


 今は卒業したとある学生研究員は手際があまり良くなく、マウスを飼育箱から出す際に逃がしかけてその時は紀伊教授も冷や汗をかいたという。


 次回の実験では僕もマウスに生理食塩水を注射させて貰えることになり、ヤミ子先輩の実験に迷惑をかけないよう慎重にやろうと思った。



 そうして4人で再び解剖室に戻り、いよいよマウスの解剖が始まった。


 今日解剖するマウスは以前から飼育されていたもので、解剖して得られた臓器はホルマリン固定して後日プレパラートにするという。


 僕とヤミ子先輩、紀伊教授が一つのテーブルに向かって座り、野上さんはいつも通り解剖が終わるまでテーブルに背中を向けて立っていることになった。



 5匹のマウスが入った飼育箱を新聞紙とキムタオルが重ねて敷かれたテーブルの上に置くと、紀伊教授は僕に向けて話し始めた。


「時に白神。マウスの解剖に限らず動物実験で最も大切なことは知ってるか?」

「はい。3Rの理念で、実験にはできる限り下等な動物を使って、できる限り少ない数の動物を使って、できる限り動物に苦痛がないようにするんですよね」


 3Rと呼ばれる動物実験の理念に関しては2か月前の講習会で教わっており、この3RとはReplacement(代替)、Reduction(削減)、Refinement(改善)の3つの英単語の頭文字を指している。



 「代替」とは実験の対象にはなるべく進化学的に下等な動物を使ったり試験管内の実験で済ませるようにしたりする心がけのことであり、痛みを感じる能力を持つ動物はできる限り使わないようにしようという趣旨になる。


 痛みを感じる能力を持たないと考えられている動物である魚や虫を対象にしても行える実験であれば犬やマウスを使わないのが望ましいとされているが、この理念については「魚や虫なら命を奪ってもいいのか」という観点からの批判もあるという。


 「削減」とはなるべく少ない数の動物を使う、すなわち不必要に動物の命を奪わないという分かりやすい心がけで、これに関しては疑問を覚える人はいないと思う。


 「改善」とは実験の際になるべく動物に苦痛を与えないようにするという心がけで、解剖する前に動物を殺す際はできる限り苦痛が少ないようにすることの他に飼育環境をよくすることもこの理念に含まれる。



「その通りだ。そこまで分かってるなら問題ないだろうから早速マウスの安楽死を見せてやろう。まずマウスを飼育箱から出す」


 そう言うと紀伊教授は飼育箱の蓋を開き、一匹のマウスの尻尾をつかんで拾い上げた。


「今からこのかわいいマウスの命を奪う訳だが、どうすると思う?」

「えーと、酸素を薄くして窒息死させるとか薬物を投与するとかですか?」


 講習会ではその2つのやり方しか習わなかったので僕はそのまま答えた。



「そうだな。そういうやり方が採用されることもあるが、最近では窒息死は安楽死にならないんじゃないかという意見があるし何らかの薬物を投与すると臓器に思わぬ影響が及ぶことも考えられる。そういう訳で、この教室ではこうする」


 紀伊教授はそこまで言うとマウスをテーブルに着地させた。


 小さくてかわいいマウスは前後の足でテーブルにしがみつき、紀伊教授は左手の薬指と小指で尻尾をつかんだままマウスの背中に右手を近づけると、


 両手の親指と人差し指でマウスの首筋をつかみ、そのまま首の皮膚を上下に強く引っ張った。


 何をしたのだろうと考える間もなくマウスはそのまま動かなくなり、あっという間に絶命していた。



「……これは一体?」

「頸椎脱臼だっきゅうっていって、マウスの首元の皮膚をつかんで引っ張ってやると頸椎が脱臼して即死するんだ。脊髄を断裂させてるからマウスが痛みを感じる可能性は極めて低いし操作してから死ぬまでの時間も一瞬だ。かわいそうに見えるかも知れないが、研究者はこうやって苦痛をすくなくしてマウスをける必要がある。しかも頸椎脱臼は誰でもできる訳じゃなくて、やっていいのは倫理委員会に技能を認められた教員だけなんだ。この教室だと俺と何人かの先生だけだな」

「なるほど……」


 紀伊教授の手技は極めて丁寧かつ迅速であり、首筋を引っ張られたマウスは鳴き声も上げずに即死していた。


 一見すると窒息死や薬殺よりも残酷そうだが、紀伊教授の説明を聞いた限りでは頸椎脱臼という手技はマウスにとって最も苦痛の少ない安楽死法なのではないかと思った。



「マウスの尊い犠牲に敬意を払いつつ早速解剖を始めるぞ。どうせだからヤミ子も改めて見学してくれ」

「はーい、了解です」


 紀伊教授はそう言うと安楽死したマウスを仰向きの状態でキムタオル上に寝かせ、解剖用のピンセットとハサミを工具箱から手元に持ってきた。


 近くに置かれている小型スプレーを手に取ると、紀伊教授は灰色の体毛で覆われているマウスの胸腹部に生理食塩水を散布した。


「最初にこうやって体表を濡らしておくと摘出した臓器に毛が混入しにくくなる。パラフィンブロックにマウスの毛が混じると後で薄切する時にスパッと切れなくて、上手くプレパラートが作れないんだ」


 臓器は骨や歯などの例外を除いて柔らかいので標本薄切の際に問題なく切れるが、毛は比較的硬い構造なのでそうもいかないのだろう。


 手短に説明しつつ、紀伊教授はついにマウスの身体に侵襲しんしゅうを加える。



 マウスの下腹部の皮膚をピンセットでつまんで軽く持ち上げると、皮膚の広い範囲をV字状にハサミで切開する。


 腹膜が無事に保たれていることを確認するとそのままV字の根本から胸部までハサミで切り進め、結果として腹膜の上部に肺が見えるようになる。


 今回の解剖では腎臓と膵臓を摘出して標本にしたいので、紀伊教授は2本のピンセットを手に取り腹膜を丁寧にいで行く。


 スムーズに破られた腹膜の向こうからは小腸や大腸、胃が現れ、紀伊教授は臓器を取り巻く各種の膜や脂肪をはじめとする結合組織を剥がしていく。


 みるみるうちに腹膜の後方にある腎臓が剖出ぼうしゅつされ、最終的には左右の腎臓が丸ごと身体から切り取られて胃と腸の間に隠れていた膵臓も綺麗に切り取られた。



 摘出された腎臓と膵臓はあらかじめ準備されている蓋付きのカセットに載せられ、そのまま野上さんに渡される。


 カセットを受け取った野上さんは載せられている腎臓や膵臓の重量をそれぞれ電子天秤てんびんで計量して記録し、計量を終えた臓器はカセットに戻して蓋を閉じたカセットごとホルマリンが満たされた瓶に浸け込む。


 ホルマリンに浸け込むのは標本となる臓器を固定するためで、固定された標本はそのままろうの一種であるパラフィンに埋め込まれてパラフィンブロックとなる。


 このパラフィンブロックを薄切してスライドグラス上に置いたものが組織切片であり、組織切片に各種の染色を施すことで顕微鏡観察の対象であるプレパラートが完成する。


 マウスの解剖では目的の臓器を丁寧かつ迅速に剖出し、毛や結合組織が混入しないように摘出した上で臓器に傷がつかないよう固定するまでの行程が重要になるのだ。



「どうだ、面白かっただろう。一応聞くが気持ち悪くなったりはしてないか?」


 一連の解剖を無言で眺めていた僕に紀伊教授がそう尋ねてきた。


「うーん、マウスがどんどん解剖されていくのはかわいそうですけど気持ち悪くはなってないですね。無意味な殺生せっしょうではなく医学研究という目的があってやっていることなので、気持ち悪くなったらむしろマウスに失礼なんじゃないかと思います」


 マウスを使った動物実験に立ち会うのは今日が初めてだが動物実験自体にはこれまでも参加したことがあり、医学部1回生の生物学実習では実際にウシガエルを解剖していた。


 あくまで実習なので細かい剖出は要求されず摘出した臓器をスケッチして提出するだけの内容だったが、実習終了後にビニール袋に放り込まれた大量のウシガエルの亡骸なきがらを見て何人かの学生は吐きそうになっていた。


 あの時のウシガエルの安楽死法では低温環境で疑似的な冬眠状態にして麻酔をかけ、首筋の皮膚を切り開いて脊髄をハサミで切断していた覚えがある。


 1年以上前のことなので記憶はやや曖昧だが、自らウシガエルの解剖を行った経験があったからこそマウスの解剖にもあまり衝撃は受けなかったのだろう。



 生物学の実習は化学や物理学の実習と同様に基礎医学ですらない教養科目の実習なので面倒がる学生も多かったが、少なくとも医学研究者になる学生には必ずいつか役に立つ経験だと思う。


 ちなみにウシガエルの解剖の前にはこれといって動物実験の講習会は受けなかったが、後で知った所によると大学の授業としての学生実習の場合は例外的に講習会の受講義務はないらしい。



「いいこと言うじゃないか。これは生理学教室の話だが、昔、実習でマウスの解剖を見せたら人前で失神して倒れた男子学生がいたらしいぞ。そいつは自宅でハムスター飼ってたらしいが、少なくとも医学研究者を目指すならそういう覚悟は本当に大事だ」

「ありがとうございます。お褒めに預かり光栄です」


 紀伊教授に褒められて嬉しかった僕はふと思ったことを聞いてみた。


「そういえば、ヤミ子先輩は初めて解剖を見た時はどうでしたか?」

「えっ? あ、ごめん、今膵臓探してるから」


 質問に答える暇もなくヤミ子先輩はいつの間にかマウスの胸腹部を開き、慣れた手つきで膵臓の剖出に取り掛かっていた。


 左右の腎臓はあっという間に切り取られており、この人には聞くまでもなかったようだと理解した。



 腎臓と膵臓を摘出された後のマウスにはもはや用がないということで紀伊教授とヤミ子先輩が解剖したマウスを全て渡され、僕は練習として残った臓器を一つ一つ剖出していくことになった。


「そうだ、そうやって胃から肛門までを一続きのくだとして取り出すんだ。……あ、切れたな」

「すいません、力加え過ぎました……」

「いやいやー、初めてにしてはよくできてると思うよ?」


 教授と学生2名がワイワイガヤガヤとマウスの死体を解剖している間、全ての腎臓と膵臓を固定し終えた野上さんはそそくさとテーブルから離れて片付けの準備を始めていた。

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