132 気分は実験動物センター

 2019年8月2日、金曜日。時刻は朝8時55分。


 人生初となるマウスの実験を行うため病理学教室の実験室に入った僕は例によって白衣を着たヤミ子先輩に呼びかけられた。


「おはよー、白神君。ちょっと紹介したい人がいるんだけど来てくれる?」

「はい、すぐ行きます」


 ヤミ子先輩の姿は実験室から直通の資材置き場にあり、僕は周囲に置かれている器具や試薬の棚に注意しながら先輩のもとへと歩いた。


 そこには40代ぐらいに見える白衣姿の女性がかがみ込んでいて、昨日僕らが準備した実験の道具を改めてチェックしてくださっているようだった。


「あら、その子が白神君?」

「そーです。医学部2回生の研究医生で、今月の実験には毎回参加して貰います」


 女性は僕の存在に気づいて振り向き、ヤミ子先輩は僕のことを簡単に説明した。



「おはようございます、紹介に預かりました白神塔也です。教室関係者の方ですか?」

「ええ、私は研究補助員の野上のがみといいます。技師さんと違って資格とかは特に持ってないんだけど、先生方や学生研究員さんの研究を助けるのが仕事です。今日も実験のお手伝いをさせて貰うからよろしくね」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」


 野上さんと名乗った女性は自己紹介をして頭を下げ、僕もお辞儀を返した。


 他の基礎医学教室と異なり病理学教室では医療行為の一環として病理診断を行う関係上、病理医である教員と共に数多くの臨床検査技師さんが働いている。


 こちらの野上さんは技師さんとは異なり何らかの資格は持っておらず、教員や学生研究員の研究の補助のみを行っているらしい。


 研究補助員は基礎・臨床を問わずどの医学教室にも配置されているが、あくまで研究だけにたずさわる仕事であり患者さんを相手とする医療行為には関与しない。


 といっても野上さんのような人がいなければ医学研究は円滑に進まない以上、研究補助員を務める人々も医療スタッフに他ならない。



「今日は今から実験動物センターに移動してそこでマウスに薬物を注射して、一部のマウスは解剖するんだよ。注射は紀伊先生と私がやるけどマウスの解剖は白神君にもやって貰うから。野上さんのお仕事もぜひ見学してみてね」

「分かりました。初心者ですが頑張ります」


 ヤミ子先輩の説明を受け、僕はいよいよ始まるマウスの解剖に覚悟を決めた。



「じゃあ早速だけど行きましょうか。白神君、このカゴ持ってくれる?」

「もちろんです!」


 道具の入った重いカゴに自分から駆け寄って持ち上げると、野上さんはにこやかな表情で感心していた。



「流石、若い男の子は頼れるわねえ。いつもはヤミ子ちゃんに持って貰ってるんだけど女の子相手だと申し訳なくて」

「私は運動部入ってないのでちょうどいい運動になるんですよー。まあ今月は白神君に楽させて貰おうっと」

「ぜひぜひ、何でも申し付けてください」


 女性陣2名にいい顔をしつつ、僕は重いカゴを片手で持って野上さんの後に付いていった。



 エレベーターで1階まで下りると実験動物センターは研究棟の裏手にあった。


 壁の所々にヒビが入っている古めかしい建物で外壁に近寄ると動物のものらしい臭気が漂っており、屋上近くからは犬のものらしき鳴き声が聞こえていた。


 これまで研究棟の裏口に回り込んだことは一度もなかったが、実験動物センターと知らずにこの建物に近づいてしまっていたら相当ホラーな体験だったのではないだろうか。


 この建物自体が大学構内を囲うへいに面している以外の3方向は研究棟など別の建物に囲まれており、大学としてもこの建物の存在を目立たせたくないのかも知れない。



 ヤミ子先輩が磁気カードの入館証を通し、僕ら3人はセンター内に入った。


 玄関で室内用スリッパに履き替えて階段で2階に上って動物実験の準備を始める。


 2階に上がると動物やおがくずの臭気がさらに強くなり、3階から聞こえてくる犬の鳴き声も相まって非常に不気味な感じがした。


 ヤミ子先輩と野上さんは当たり前のように通路を歩いて扉を開けているが、もしここに来るのが慣れている2人と一緒でなければ僕は怖ろしくて仕方がなかっただろう。



 まずはマウスの解剖室に入り女性陣2名が解剖の準備をするのを見学していると、巨体に白衣をまとった紀伊教授も合流した。


「おう、ちゃんとやってるじゃねえか。白神も真面目に見て勉強しとけよ? 次回からはお前にも準備を手伝って貰うからな」

「もちろんです。先生、今日は先に解剖をするんですか?」


 ヤミ子先輩の話だとマウスへの薬物の注射を先にするような口ぶりだったが、今の所は解剖の準備が進められている。


「いや、マウスの飼育箱は注射をする部屋にあるから注射してから解剖の順番だな。今日は注射は見学だけにして貰うが、解剖はお前もやるんだぞ」

「分かりました。何とか頑張ります」

「この机は狭いけど3人まで使えるから、解剖する時は私も隣でレクチャーするね。解剖は難しそうで意外と単純な作業だから一緒にやってみましょ!」


 解剖の舞台となるらしいテーブルに新聞紙を敷き、その上にキムタオルを重ねつつヤミ子先輩が声をかけてきた。



「ええ、よろしくお願いします。ところで野上さんが解剖を行われることもあるんですか?」


 マウスの解剖自体には何らかの免許は必要なく、事前に動物実験に関する講習会を受講していれば原則としては誰でも解剖を行える。


 僕もこの前の6月には本地教授の指示で講習会を受けに行っており、その際に動物実験の許可証を与えられたために今日ここに来ることができた。



「私が解剖? とんでもないとんでもない。もちろん動物実験の講習会は受けてるんだけど、実は私、昔から動物の死体を直視できなくて……」

「な、なるほど……」

「野上さんはあれだ。昔、学生研究員がインフルエンザで欠席した時にピンチヒッターで解剖して貰ったらこの部屋で失神して倒れてな。救急車呼ぼうにも駐車場ないし関係者しか入れないしで大変だった。今ではいい思い出だけどな」

「ちょっと先生、恥ずかしいですよ!」

「そうかあ? いやー申し訳ないなあ」


 照れる野上さんとガハハと笑う紀伊教授に、僕もヤミ子先輩も苦笑していた。

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