137 気分は哲学者
目的地のステーキ店はJR皆月駅を越えて少し歩いた所にあり、紀伊教授のおごりで僕とヤミ子先輩は1セットが2500円もするステーキランチを頂いた。
「お肉おいしいですー。気前のいい上司を持って私は幸せです」
「そう言って貰えると嬉しいが、お前らも教員になったら学生にバンバンおごるんだぞ。そういう意味で俺はケチくさい真似はしないようにしてるんだ」
紀伊教授は自分だけ3500円払ってステーキの量を2倍にしており、50代なのに現役運動部員のような食欲を持っている人だと思った。
「ところで、さっきの動物愛護団体とのバトルは面白かったですね。僕もああいう団体には何となく違和感があったんですけど先生のお話で
「ああ、あれか。俺は別にあいつらの活動自体にどうこう言うつもりはないんだが、そもそも『動物愛護』って言い方が嫌いなんだ。俺たちヒトも同じ動物だという事実を忘れてるし、愛玩動物だけを愛護したいなら
巨大なステーキを口に運びつつ紀伊教授はそう話した。
「動物愛護団体は大学の医学部にとっても無関係じゃなくて、特に基礎医学教室は動物実験をよくやるからひどい時は連中が実験動物センターに押しかけてきたりする。日本の団体なら暴力を振るうことはないから、そういう時はたいてい俺が呼ばれてさっきみたいに言い負かして退散させるんだ。正直ろくに言い返せない相手ばっかりで張り合いがないけどな」
「あの、日本の団体ってことは海外の団体がやって来ることもあるんですか……?」
一か所気になった点を尋ねると、
「もちろんあるし、海外の団体は本当にやばい。実験動物センターの設備を破壊したり動物を勝手に逃がそうとしたりしてたいていは器物損壊や不法侵入で逮捕される。といっても国外に退去させられて終わりだからまたいつ仲間が来るか分からない。やばめの事件が続いたから、今は実験動物センターの周囲は防犯カメラで固めてるんだ」
何気に恐ろしい話を聞かされた。
「それは何というか、ラディカルですね……」
動物実験を阻止したくても自らも日本で生活していかざるを得ない日本の動物愛護団体と異なり、海外の動物愛護団体は日本でどれだけ暴れても普段の生活に支障はないからそれだけ活動も過激になるのだろう。
「おっと、そろそろ戻らないとまずいな。会計は済ませておくからゆっくり食べててくれ。次回の実験でもよろしく頼むぞ」
動物愛護団体とバトルしていたせいで時間をロスしたのか、紀伊教授はそう言うと残っていたステーキをガツガツと口に放り込みそのまま席を立った。
教授が会計を済ませて店を出た所で僕はヤミ子先輩に話しかけた。
「お疲れ様です。紀伊教授って何というか独特な人ですけどかっこいいですよね」
「白神君もそう思う? あの人は外見がいかついから怖がられがちだけど色々と頼りになるし、あらゆる点で面白い人だよ。病理医自体基本的に変な人しかいないからそこは割り引いて考える必要があるけど」
先輩はそう言うと傍らのコップの水を一口飲んだ。
「過激な動物愛護団体の話がありましたけど、ヤミ子先輩もそういう人々に遭遇したことはありますか?」
僕と異なり先輩は2回生からずっと病理学教室に所属しているはずなのでその可能性もあるように思った。
「実験動物センターまで踏み込んできた場面には遭遇してないけど、阪急の駅の前で演説してるのは見たことあるよ。JRでやってるのと違って阪急でやる時は畿内医大の動物実験への批判も結構言ってるみたい」
「なるほど……」
僕は下宿住まいなのでJR皆月駅にも阪急皆月市駅にもあまり行かないが、実家通学の学生はたまに目撃しているのかも知れない。
「紀伊教授は愛護団体の人を言い負かしてましたけど、動物愛護団体の主張ってヤミ子先輩的にはどう思われます?」
「バカみたいだと思う」
何気なく聞くと、先輩は顔色一つ変えずに即答した。
「えっ?」
「ひどい言い方になるけど、私、ああいう団体の主張には何一つ賛成できないし、いい年した大人がどうしてあんなバカみたいなことを言うのか不思議に思うの」
「な、なるほど……」
ヤミ子先輩が何かを悪く言う姿は初めて見たので僕は軽くたじろいでいた。
「ごめんね、驚かせちゃったかな。せっかく時間あるしこの前の話の続きしていい? あの、動物を養殖することの話」
「ああ、あの話ですね。どうぞどうぞ、ぜひ聞かせてください」
この前のマウスの解剖の直後、ヤミ子先輩は僕に野生の動物を殺すことと動物を養殖して殺すことには大きな違いがあるという話をしていた。
その理論の詳細は聞けていなかったが今この機会に話してくれるらしい。
「まず、さっきの人たちみたいな動物愛護団体は野生の動物を狩猟することをすぐに批判するよね。日本人がイルカやクジラを狩猟したりクマやイノシシを撃ち殺したりするとすぐに抗議声明を出すし、ひどい時にはインディアンやエスキモーの人たちの狩猟を妨害しようとしたりする。ああいうのって本当に意味が分からないの。だって野生の動物を殺して食べるのなんて、肉食とか雑食の動物にとっては当たり前のことだよね。そんなこと言うなら虎やライオンは生きてちゃいけないの? って思う」
「確かに、虎やライオンは他の動物を殺して食べてよくて人間はいけないっていう理屈はおかしいですね……」
食物連鎖の上位にいる肉食あるいは雑食の動物が下位の動物を殺して食べるというのは生態系において当たり前のことであり、動物愛護の観点であってもそれを否定していいことにはならない。
「それなのにああいう団体は牛や豚やニワトリを養殖して食肉にしたり、お魚の稚魚を放流して漁獲量を増やしたりするのには全然文句を言わないの。ヴィーガンの人は肉食自体を批判するけど、そういう人でも養殖そのものを否定してるのは見たことない。普通に考えれば、本来問題とされるべきなのは狩猟でも肉食でもなく動物を養殖して殺すことなのに」
「なるほど。その理由、詳しく教えて頂けませんか?」
野生の動物を殺すことと養殖した動物を殺すこととの間に大きな違いがあることは何となく理解できるが、僕の脳内ではその根拠を整理できていない。
「一部の例外はあるかも知れないけど、他の動物を養殖する能力を持っているのって基本的にはヒトだけだと思うの。野生の動物を殺して食べるのは肉食の動物として当たり前だけど、養殖という行為だけは自然の
先輩はそこまで言うと冷めかけているポタージュスープを飲み干した。
「となると先輩は、人間は養殖という行為をやめた方がいいと思われるんですか?」
ヤミ子先輩はひょっとすると既存の動物愛護団体を超越した進歩的思想を持っているのではと思って尋ねると、
「いや全然。だってこのお肉おいしいでしょ?」
先輩はあっさりそう答えて、残っているステーキを一口食べた。
「養殖という行為が論理的に正しいかどうかと、それをやるべきじゃないかは別の話。ヒトは確かに自然の理をはみ出した行為をしてるけど今更養殖をせずに生きていける訳がないんだから、私たちはこれからもおいしい肉や魚を食べればいいの。だけどね」
先輩はそこで一拍置いて、
「ヒトは自然の理を逸脱してるって自覚は、すべての人間が持つべきだと思ってる。養殖という残酷な行為をしてる以上食事に出てきたお肉やお魚は食べ残しちゃいけないし、実験動物は大切に扱わなきゃいけないの。逆に言えばその辺の浅瀬で釣った魚にはそこまで感謝しなくていいし、害虫を駆除する時に気を病む必要もないんだよ。それが野生と養殖との違い」
最も大事な結論を述べると、ステーキの最後の一切れを食べた。
「……先輩のお話、すごく納得できます。だから先輩はマウスを丁寧に扱われてたんですね」
「もちろん。今の医学研究では野生のマウスを捕まえてきて使うことはほとんどないから、私はいつもマウスに感謝しながら研究をしてる。残酷だからって動物実験に反対するんじゃなくて、残酷だと分かってるからこそ私たちは実験動物の尊い犠牲のもとに素晴らしい研究をする義務があるの」
真剣な表情でそう話したヤミ子先輩はいつもの気さくな美人ではなく、色気の溢れた憧れの先輩でもなく……
一人の、哲学者だった。
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