124 気分は魔性の女
まだ美波さんとのことを尋ねるには早いのでオーダーした肉や寿司、小料理が届くまでの間に来月の研修について聞いてみることにした。
「来月は病理学教室の基本コース研修を受けるんですけど、ヤミ子先輩って普段どんな感じの人なんですか?」
「えっ? 白神君は結構前からヤミ子君と知り合いなんじゃないのか?」
「知り合ってからは結構経つんですけど、よく考えるとヤミ子先輩と2人で長時間話したことがなくて意外とキャラクターを知らないんです。頼りになる先輩とはお聞きしてますけどもう少し情報を知っておきたいなと思って……」
僕が病理学教室所属の研究医養成コース生である山井理子先輩、通称ヤミ子先輩と知り合ったのは今年3月の上旬だった。研究医養成コースへの転入が決まった翌日に早速お会いしたので研究医生の先輩の中では剖良先輩と同日だが最も早く知り合ったことになる。
その一方で3月からこれまで論文抄読会以外で病理学教室に出入りすることはほとんどなく、ヤミ子先輩と2人きりで話す機会も皆無に近かった。
ヤミ子先輩は普段から剖良先輩と一緒に行動していることが多く、僕とヤミ子先輩だけで話したのは学内で偶然会って立ち話をした時ぐらいだったように思う。
「兵庫県の西宮市出身である」「この大学には一浪して入学しており僕と同い年」「大学受験では生物選択で入学後も成績優秀」「写真部に所属しており部活で顕微鏡写真のコレクションを発表しては迷惑がられている」「実は親友である剖良先輩から想いを寄せられている」といった様々な情報を断片的に知っているが、実際にヤミ子先輩がどういう人なのかは全然知らないのが実情だった。
「そうだなあ。ヤミ子君は普段話している分には気さくなキャラクターで、共学出身だから男子とも女子とも自然に話せる人だ。見ての通り結構な美人で親しみやすい人柄もあって男子からの人気も高い。男に大変もてる点では剖良君と同じだが、剖良君は言い寄ってくる男を次々に玉砕させてきたのに対してヤミ子君はこれまではっきり誰かから告白されたという噂も聞いたことがない。まあ剖良君が常に目を光らせているからというのもあるかもしれないが……」
「なるほど、ヤミ子先輩もある意味では高嶺の花なんですね」
普段の気さくなキャラクターからは想像できなかったが親友である剖良先輩ともども異性からの人気は非常に高い人らしい。そういえば同じく写真部員である柳沢君もヤミ子先輩のことが気になっているとは聞いていた。
「ただ、ヤミ子君が男にもてるのは単に美人で親しみやすいからという訳じゃない。彼女は剖良君とか壬生川君とか他の美人と比べて何というか、こう……古典的な意味でいい女なんだ。気配りができるというかよく気が付くというか、そういう社交的な面も含めて何とも言えない色気がある」
「……えーと?」
マレー先輩も表現に苦労しているらしいが、ヤミ子先輩はとても気さくな感じの美人でも「いい女」とか「色気がある」といったイメージは皆無だったので全く実感が湧かない。
「俺には美波がいるから浪人中もこの大学に入学してからも他の女の子に興味を持つことはなかったし、あえて興味を持たないようにもしてきた。剖良君もヤミ子君も美人だがルックスだけで言えば美波の方が絶対にかわいいからな。これはオフレコにして欲しいが、そんな俺でもヤミ子君にはグッと来たことがある。あの感覚は近くで過ごした男にしか分からないと思う。……繰り返すが、このことは秘密にしておいて欲しい」
「もちろんです、絶対に誰にも言いません」
明らかに他言できる部類の話ではないが、色々あっても少なくとも3日前の修羅場を経験するまでは美波さん一筋だったはずのマレー先輩がヤミ子先輩に惹かれたことがあると知り僕は率直に驚いていた。
分かりやすい美女なのは剖良先輩の方だし、2回生だとゴージャスなお嬢様を装っていた頃の壬生川さんもそれに該当するので彼女らに惹かれてしまったというのなら僕も理解できる。
その一方、美人ではあるが「色気」とか「いい女」といった表現とは無縁に思われたヤミ子先輩が美波さんという魅力的な美女と婚約しているマレー先輩を強く惹きつけたというのは意外すぎる事実だった。
「剖良君と違ってヤミ子君は周囲の男に告白されたことがないと言ったが、それはヤミ子君に付き合いたいと思わせるほどの魅力がないからじゃなくてむしろその逆だ。彼女の周囲にいる男は自分でも気づかないうちにヤミ子君に色気を感じるようになって、その感情に恐れをなしてしまうから告白しようとは思わないんだ。俺だってヤミ子君に惹かれたことはあっても彼女を自分のものにできるなどとは全く思わなかったよ」
「うーん、複雑な論理ですね……」
僕自身はこれまで女の子に自分から告白したことがなく、誰かを自分のものにしたいとまで思ったことがない。
この大学の2回生に進級してからは多忙すぎる毎日と慢性的な金欠のせいで女の子と付き合うどころではなく、カナやんと壬生川さんからのアプローチに対してもどこか逃げの姿勢に入ってしまっているのもその理由が大きい。
このような僕がヤミ子君にどういう感情を抱くのかは不明だが、今の状況でヤミ子先輩に惚れてしまうなどすれば各方面から袋叩きに遭う気がするので僕は厄介ごとに巻き込まれないよう内心で祈った。
「これ以上は言葉では伝わらないと思うから説明しないが、白神君もヤミ子君と1か月間付き合うなら彼女はある種の魔性の女だということを覚えておいて欲しい。白神君自身がどう思っていようが生島君や壬生川君は君のことを気に入っているようだから、下手に目移りすると後が怖いぞ。それでもヤミ子君に惹かれるならばそれはそれで仕方ないけどな。まあ部外者の俺はトラブルがないことを祈るばかりだ」
「わ、分かりました……」
マレー先輩の助言はオーバーすぎるようにも思えたが、面倒な事態にならないことを祈る他ないのは僕も同じだった。
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