123 気分はしゃぶしゃぶ

 7月は畿内医大の医学部オープンキャンパスに初めて参加したり文芸研究会一同で文芸マーケット大阪にサークル参加したり、その両方でマレー先輩と美波さんの修羅場に巻き込まれたりと刺激的なイベントが多かった。


 そんな中でも毎週土曜日はマレー先輩が行うグラム染色を見学させて貰っていて、7月6日の初回ではよく分からなかった手技も3週間後の最終回の時には意味を理解できるようになっていた。


 松島教授から与えられたレポート課題は先輩のご指導もあって無事に仕上げることができて、色々あって忙しかった中でもひとまず今月の目標は達成できたと思う。



 2019年7月31日、水曜日。時刻は夕方18時。


 微生物学教室の基本コース研修自体は昨日までで終わっていて、昨日の放課後にはマレー先輩と合流して教授室を訪れ松島教授にレポートの最終版を提出した。


 一部に不十分な点もあったようだがちゃんと合格点を貰えて、教授からは明日は1日ゆっくり休んでくれていいと伝えられた。



 2回生の授業は7月30日火曜日で一旦終了となり、後は9月1日の日曜日までずっと夏休み期間となる。


 とはいっても1年間を通して研究医養成コース2年次転入生の研修を受ける僕には事実上夏休みは存在せず、8月一杯は病理学教室の基本コース研修が待ち構えている。


 春休み中だった3月の解剖学教室基本コース研修と同様に夏休み中でほとんど1日中研究に費やせる8月の研修も相当ハードな内容になるらしく、松島教授からは頑張って紀伊先生にしごかれて来るようにと言われた。


 紀伊教授には月に1回のペースで開催される病理学教室の論文抄読会でお会いしているが、巨漢の侍を連想させるダイナミックな外見の通り豪放磊落ごうほうらいらくな人なのであの人にビシバシとしごかれる研修はかなりきつそうだと思った。


 幸いにも研修を指導してくれる山井やまい理子りこ先輩、通称ヤミ子先輩とはかなり前から顔見知りなので困った時に頼れる先輩がいるのはありがたい。



 来月の話はひとまず置いておいて、今の僕が何よりも心配しているのは今月一杯お世話になったマレー先輩のことだった。


 つい3日前に僕は文芸マーケットの最中にマレー先輩が婚約者である宇都宮美波さんと破局するのを目にしてしまい、事情が事情なのであれからどうなったかを直接尋ねることもできなかった。


 昨日お会いした際にマレー先輩から明日は何か予定があるかと聞かれて、特にないですと答えると先輩は「記念に何か食べに行こう」と誘ってくれた。


 仲のいい先輩といっても他人の恋愛事情に首を突っ込むつもりはないがこの機会を逃すと先輩と美波さんの関係を心配したまま何も分からず終わってしまいそうなので、僕はぜひご一緒させてくださいと返事した。



 この前は阪急皆月市駅前の焼肉店に連れて行ってくれたが今回は駅近のリーズナブルなしゃぶしゃぶ店でご馳走してくださることになり、先輩からは18時に現地集合と伝えられた。


 今日の昼間は夏休み突入記念ということで久々に林君と柳沢君およびカナやんという全員部活の違う友達グループでカラオケに行ったが、その時と同じ服を着て僕は夕方に下宿を出た。


 阪急皆月市駅から歩いて5分ほどの場所にある「ほっとベジタブル」はオーガニック料理店のような名前をしているがその実は全国的に展開されているしゃぶしゃぶチェーン店である。大阪府内にも数多くの店舗が構えられており、アルコールを頼まなければ3000円ほどでしゃぶしゃぶと寿司が食べ放題になるという良心的な店だった。


 普段から一人で行けるほど安くはないが学生同士でちょっと豪華な打ち上げをやる際などは重宝する店で、僕も剣道部に所属していた1回生の頃は先輩に何度かおごってもらった経験があった。



 集合時間の3分ほど前に店の前まで来ると間もなくマレー先輩が姿を見せた。


「お疲れ様です、先輩。今日は誘ってくださってありがとうございます」

「今月は俺も白神君に色々世話になったからこれぐらいは当然だよ。もちろん全額おごるから好きなだけ飲み食いして欲しい。例によってアルコールは頼めなくて申し訳ない」

「いえいえ、めっそうもないです。本当にありがとうございます」


 そう言ってぺこりと頭を下げるとマレー先輩は苦笑しながら先に店へと入っていった。


 たった3日前にあれだけの修羅場があったからか先輩の表情にはどことなく影が差しており、今日は少しでも先輩の話を聞ければと思った。



 先輩はしゃぶしゃぶ・寿司の食べ放題コースにソフトドリンクの飲み放題プランもつけてくれていて、最初に僕はオレンジジュース、先輩はウーロン茶をオーダーした。


 お互いの飲み物が届き、4人掛けのテーブルの中央にあるIHヒーターにしゃぶしゃぶの鍋と出汁も準備されると僕と先輩は互いをねぎらって乾杯した。


 オレンジジュースをストローで軽く吸ってから僕は先輩に話しかけた。


「今月は本当にお世話になりました。グラム染色は知識でしか知りませんでしたけど、先輩に目の前で何度も実演して頂いてかなり深く理解できたと思います。9月の染色手技試験も他の学生よりはずっと上手くやれそうです」

「あの程度は微生物学教室の学生研究員なら誰でもできるが、白神君に面白いと思って貰えたなら何よりだ。生理学教室の天地教授も仰っていたが優れた研究成果の第一歩は研究者自身が研究を面白いと思うことだからな。将来的に微生物学教室に所属してくれてもしてくれなくても、研究に関する何かを面白いと思う心は忘れないで欲しい」

「分かりました。アドバイスありがとうございます」


 剖良先輩から3月に免疫染色を習った時は手技の大変さばかりを感じて染色の作業を面白いとは思えなかったが、今やってみれば違うのかも知れない。


 免疫染色は病理学教室でも頻繁に用いられると聞いているので、もし来月の研修で免疫染色を行う機会があればその時は改めて真剣に取り組もうと思った。

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