111 気分は美人歯学生

 そうして時は今に戻る。


 学生食堂まで連れて来られた当初美波さんは僕に色々罵声を浴びせてきたが、しばらくすると我に返ってその辺の椅子に座り込んだ。


 お昼ご飯は食べたか聞くとまだだと言うので、僕は自販機で食券を買うと美波さんにはA定食を、自分にはきつねうどんを注文して持ってきた。


 トレーに載った定食を無言で差し出すと、美波さんは落ち込んだ表情のまま昼食に手をつけたのだった。



 美波さんがどうしてオープンキャンパスにやって来たのかは分からないし松島教授にマレー先輩の悪口を吹き込み始めた理由はもっと分からないが、人間お腹が空いていては冷静な話はできない。


 彼女からまともに話を聞くにはマレー先輩から隔離した上で空腹を解消して貰う他ないと僕は考えていた。



 定食を食べ終える頃には美波さんもすっかり落ち着いており、僕は改めて静かな口調で話しかけた。


「ところで今日はどうしてここに来られたんですか? 再受験っていうのは?」

「ああ、その話ね。再受験っていうのは咄嗟とっさに考えた嘘だから大した意味はないの。普段学生として過ごしてるまれ君の様子を見られる機会は中々ないけど、オープンキャンパスなら許されるかなって。去年来た時は他の学生さんにちゃんと婚約者だって伝えたし喧嘩にもならなかったんだけど、女の子に口元を拭いて貰ってるのを見てかーっと頭に血がのぼっちゃって……」

「ああ……」


 美波さんは本来マレー先輩の婚約者として堂々と様子を見に来るつもりだったが、当の先輩がヤミ子先輩に口元を拭いて貰っているのを偶然目撃したせいで思考回路が攻撃モードに移行してしまったらしい。


 松島教授が美波さんの存在を知らなかったことからすると昨年のオープンキャンパスでは学生としか会わなかったのかも知れない。


「だからって大学の先生にまれ君の悪口を言っちゃったのは本当にひどかったと思う。今回はしばらく許してくれないかも」

「しばらくというかあの先生はマレー先輩の上司に当たる人なので、下手すると一生許して貰えなくても仕方ないですよ。もうちょっと危機感持たれた方がいいと思います」

「うん……」


 美波さんはそう言って再びうなだれたが、しばらくすると食堂内を見回しつつ口を開いた。



「白神君はいいな。私と違って二浪しても医学部に入れて、ちゃんと進級してまれ君みたいな優しい先輩に助けて貰えて。私もあの時医学部に受かってたら、もうちょっと楽しい学生生活を送れたのかも」

「うーん、確かに医学部に入れたのはありがたいですけど学生生活楽しいことばかりでもないですよ。いつも試験勉強に追われて実習はきつくて長引くこともあって、私立医大では実家にお金がないと友達付き合いもやりにくいです。畿内歯科大ではその辺どうなんですか?」


 美波さんは医学部の現実を知らないのではと思って逆に私立大学の歯学部の事情を聞いてみた。


「試験が多いのは一緒だけど畿内医大の医学部と比べて偏差値が15も低いから、授業や実習でもそんなに高度な理解は要求されないかな。解剖実習はあるけど頭頸部しか扱わないし、まれ君の話を聞いてても医学部って大変なんだなって思う。その分だけ学費は3800万円ぐらいで畿内医大より高いの」

「同じ医療系の単科大学でも、私立の歯科大は色々違うんですね……」


 僕自身は歯科医師になろうと思ったことはないし親戚にも歯科医師は一人もいないのでこの辺りの事情は初めて聞いた。


「学生として不満な点はあるけどそれでも畿内歯科大はいい大学だと思うし、OBやOGの歯医者さんも腕がいいって評判なの。近畿圏内には浪速なにわ大学と畿内歯科大にしか歯学部がないから偏差値は高くなくてもモチベーションの高い学生が集まってるみたい。まあ中には私みたいな医学部受験生崩れもいて、毎年何人か再受験で抜けていくんだけどね」

「医学部受験生崩れって、そこまで自分を卑下されなくても。美波さんはすごく美人ですし、マレー先輩も本当は優しい女の子なんだって話してましたよ。僕が言うのも申し訳ないですけどできるだけ畿内歯科大で楽しく生きていってみては?」


 美波さんは自分の境遇をみじめに思っているようだが、客観的に考えればお金持ちの家に生まれた美人の歯学生という時点で十分恵まれていると思う。




「私も本当はそうすべきだったんだけど入学後に色々失敗しちゃって、はっきり言うと学内で孤立してるの。畿内歯科大の学生では勉強ができる方だから試験には困らなかったし、何人もの男の子が私にアプローチしてきた。でも1回生の頃、自分は他の学生とは格が違うんだって思い上がって、医学生と婚約してることを女友達に自慢気に話しちゃったの。アプローチしてきた男の子にもひどい断り方をしちゃって。当たり前だけど同級生には敬遠されるようになって残ってる友達は軽音部の仲間ぐらい。できることなら、今からでも再受験したい気持ちはあるの」

「それは何というか、お気の毒です……」


 完全に美波さんの自業自得ではあるのだが、彼女の身の上を知っているとどうしても自己責任と切って捨てる気にはなれなかった。


「もちろん今から医学部を再受験したって上手くいく保証はないし、せっかく3回生まで進級したんだからこのまま頑張ってちゃんとした歯医者さんになろうとは思ってる。ただ、学内で孤立してる分だけまれ君には依存しがちになって、色々迷惑をかけては許して貰っての繰り返しになってる。このままだといつかまれ君は私に愛想を尽かすと思うし、そうなったら私、生きていけない……」


 美波さんは一息に話すと涙ぐみ始め、僕は彼女の屈折した心境を哀れに思った。



 それからトレーごと2人分の食器を返却し、マレー先輩にメッセージアプリで今の状況を伝えると先輩はすぐに食堂まで来てくれた。


 先輩は僕が美波さんを修羅場から連れ出したことに感謝の言葉を述べ、美波さんに優しい言葉を投げかけると食堂の座席から立たせた。


「じゃあ帰ろうか。最近はあまりゆっくり話してあげられなかったから、今日はこのまま君の家まで行こう。松島先生には早退の許可を貰ってきた」

「……ありがとう、まれ君。ごめんね、途中で帰らせちゃって」

「もうすぐ閉会の時間だから気にしなくていいよ。今度から人前で思ってもないことを言うのはやめて欲しいけど、そのことも含めて家でゆっくり話そう」


 マレー先輩はそう言うと美波さんの手を優しく握り、彼女に対する純粋な愛情が僕にも伝わってきた。



「白神君、美波を落ち着かせてくれて本当にありがとう。松島先生にもここに居てくれていた件は伝えてあるから、今からロビーに戻ってヤミ子君や剖良君を助けてあげてくれ。また今度お礼に夕食でもおごるよ」

「ありがとうございます。先輩も今日はゆっくり休んでくださいね」

「ああ、美波と一緒に落ち着いてくるよ」


 美波さんを連れて学生食堂を出ていった先輩を、僕は会釈して見送った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る