110 気分は修羅場

「あっマレー君、顎にご飯粒ついてるよ。取ってあげる」

「そうか? 申し訳ない」


 マレー先輩の右顎に小さな米粒がついていたことにヤミ子先輩が気づき、ポケットティッシュを取り出すと右手を伸ばして拭いてあげようとした。


 その瞬間だった。



「まれ君……」


 聞き覚えのある低い声に振り向くと、そこには小柄な背丈にとても長いロングヘアが特徴的な女の子が立っていた。


 ネイビーブルー系でまとめられた高級そうなスカート姿とトランジスタグラマーな体つきから、僕は相手の正体を瞬時に思い出した。


 彼女らも以前会ったことがあるのかヤミ子先輩はティッシュ越しにマレー先輩の右顎を拭いている状態で硬直し、ポーカーフェイスのままではあるが剖良先輩さえも狼狽し始めた。



「ねえ、何してるの?」


 そう言ってつかつかと歩み寄ってきた美波さんに、剖良先輩がとっさに反応した。


「ヤミ子、ちょっとお手洗い付き合って!!」


 先輩はそう叫ぶと両手でヤミ子先輩の左腕を取って立ち上がり、そのまま2人で講義実習棟の階段を駆け上がっていった。


 美波さんの性質からすると「浮気相手」の女子学生を大声で呼び止めたりしそうなものだが、剖良先輩の迅速な対応によりその余裕もなかったらしい。



「……何、あの子たち。まれ君、さっきのってどういう女の子なの?」

「どういうも何も同じ医学部3回生の友達だよ。それ以上でもそれ以下でもない」

「嘘つかないで、だったらどうしてあんなに仲良くご飯食べてるの」

「何が言いたいんだ、あの子は口元のご飯粒を取ってくれてただけじゃないか。第一どうして君がまたここに来てるんだ」

「また……?」


 美波さんは畿内歯科大学の歯学部歯学科3回生であり、既に高校生でも受験生でもない。


 今日ここに来ている理由も謎だがマレー先輩の「また」という言葉によるとこういう事態は初めてではないらしい。


「そんなの決まってるじゃない、私は」

「あれっ、お客さんかな? うちの学生じゃないようだけど」


 美波さんが再び先輩に食ってかかろうとした瞬間、入試広報センター長すなわちオープンキャンパスの総責任者である松島教授が屋外からロビーに入ってきた。



 松島教授の姿を見て美波さんは何を思ったのか、


「こんにちは。私、この大学を受験しようと思ってるんです。今日は入試相談会に参加したかったんですけど……」


 笑顔を浮かべてそう言った。


「へえー、そうなんだ。そこの男子たちは昼休み中だからもしよかったら入試広報センター長の僕が相談に乗るよ。ささ、机にどうぞ」

「ありがとうございます。大学の先生にお話を聞いて頂けるなんてとてもありがたいです」


 美波さんが美女だからかどうかは不明だが、松島教授はやたらと乗り気で美波さんの入試相談に乗り始めた。


 「よその大学の3回生である婚約者が自分の大学のオープンキャンパスに突如現れて入試相談を依頼した」という今の事態が複雑すぎるからかマレー先輩は椅子に座ったまま完全に硬直してしまっており、僕も右に倣えという状態だった。



 それから黙り込んでいるマレー先輩と僕の隣で、美波さんは松島教授に「入試相談」を繰り出し始めた。


「私、枚方市の畿内歯科大学の3回生なんですけど、今からでもこの大学の医学部を再受験したいんです」

「ええっ、それはまた大胆な再受験だね。畿内歯科大っていうと結構な学費がかかるけど親御さんは反対しないの?」

「実は許嫁いいなずけがこの大学の医学部3回生で、私も受験生の頃から本当は医師になりたかったんです。勉強は大変ですけど再受験は両親も認めてくれてます」

「そうかいそうかい。その許嫁が誰なのか気になるけど、わざわざ畿内医大を再受験するのは許嫁が在学してるからかな?」

「ええ、その通りです。許嫁は私のことを愛してるって口では言うんですけどすぐに他の女の子とイチャイチャして、よその大学にいるといつ浮気されるかと気が気じゃないんです。同じ大学にいられればその心配もなくなるかなって」


 どこまで本当でどこまで嘘か分からない内容をぺらぺらと話す美波さんに、ついにマレー先輩の堪忍袋の緒が切れた。



「……もういい、いい加減にしろ、美波」


 先輩はそう言って立ち上がると松島教授のテーブルの向かい側に座っている美波さんに歩み寄り、右手で彼女の左腕をつかんだ。


「どれだけ俺のことが嫌いだからってお世話になってる松島先生に悪口を吹き込むのはあんまりじゃないか。これ以上俺を怒らせる前に、今すぐ帰れ!!」

「痛い、何するのまれ君。誰が嫌いなんて言ったのよ」

「うるさい! 君は俺にどうして欲しいんだ!!」

「ちょ、ちょっと、どういうことなんだいマレー君」


 再び修羅場を展開しているマレー先輩と美波さんに松島先生も困惑して呼びかけた。



「この子は、美波は俺の婚約者なんです。先生にはまだ話してませんでしたけど、俺は卒業したらこんな女と結婚しなきゃいけないんですよ」

「こんな女ってどういう意味!? いいから放してよ!」

「もう歯学部の3回生のくせに、いつまで医学部にこだわるんだ。君みたいな自己中心的な女に医者なんて務まると思ってるのか!!」


 オープンキャンパスという公の場で婚約者同士の怒鳴り合いが始まりかけた瞬間、僕の脳裏に自分が今すべきことがひらめいた。



「美波さん、僕と来てください!!」


 そう叫ぶと僕は美波さんの左腕をつかんでいるマレー先輩の右手をはらいのけ、そのまま右手で彼女の左腕をつかんだ。


 何も言わずに美波さんの腕を引っ張り僕はそのまま正面玄関からロビーを飛び出した。


 不意を突かれた美波さんは抵抗せず、そのまま僕に図書館棟地下の学生食堂まで連行されたのだった。

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