107 気分は学歴コンプレックス
「いやー、先ほどの人には心が温かくなりましたね。渡部先輩的にはどう思いました?」
「身の上話も聞いてみたけど元々実家が開業医で、本人は哲学を勉強したかったから京都大学の文学部に現役で入学したらしい。卒業後にサラリーマンとして働く中でやっぱり実家を継ぎたいと思って再受験を考えたんだとか。京大に現役で入れるだけあって地頭はよくて、脱サラ後は医学部専門予備校で猛勉強してるから上手くいけば今年の入試で第一志望の畿内医大に入れるかも知れないそうだ」
「へえー、結構すごい人だったんですね」
渡部先輩の話に感心しているとマレー先輩が口を開いた。
「あのな白神君。医学部専門予備校って簡単に言うけど1年間の学費がいくらか知ってるか? 適当に言ってみてくれ」
「えーと、200万円ぐらいですか?」
大手予備校である
「予備校にもよるが、大体600万円だ」
「ろ、ろっぴゃく……?」
この大学の奨学金や研究医養成コースでの減免を除いた正規の学費が年間500万円ほどなので、僕は医学部受験のための予備校の学費がそれより高いという事実に驚いていた。
「まあ、いつの時代も金持ちは強いってことだな。ははははは」
「うーん……」
話を適当にまとめて笑っている渡部先輩を見つつ、僕は世の中の不条理というものを考えざるを得なかった。
それから間もなくして新たに1名の来客が現れた。
「失礼致します、医学部受験の相談コーナーはこちらですか?」
現れたのは高級そうな身なりの中年女性で、数十万円では買えなさそうな中型のバッグを手に提げていた。
「ええ、こちらで相談を受け付けております。相談内容に応じて適した人員が応対させて頂きますが、どのようなご相談でしょうか?」
先ほどと同様にマレー先輩が用件を尋ねると、女性は困り顔で話し始めた。
「うちの息子は高3の受験生なんですけど中々成績が上がらないんです。医学部受験について色々お聞きしたいのですけど、低学年の方はいらっしゃいますか?」
「もちろんです。こちらの白神は医学部の現2回生ですので何でもお聞きください」
「はい、よろしくお願いします」
マレー先輩に再び応対を任され、僕は椅子から立ち上がってお辞儀をした。
僕の向かい側に座ると、女性はバッグからメモ帳とボールペンを取り出して尋ねた。
「まず、白神さんは現役で入学された方ですか? あと現役でも浪人でも、合格した年度の7月時点での模試の判定を教えて欲しいです」
「僕は二浪してこの大学に入学しました。合格した年度だと、7月なら一応B判定は貰えてました。第一志望だった伊予大学医学部だとC判定ですね」
「そうですか……うちの息子は中学受験に失敗して今は公立高校に通ってるんですけど、成績はさっぱりです。国語と社会を仕上げている余裕がないので今年は私立専願で頑張って貰うつもりなんですが、畿内医大はD判定なんです」
「えっ、現役で畿内医大がD判定ですか? つかぬことをお聞きしますが、
畿内医大は近畿圏内に4つある私立大学医学部医学科(畿内医大・京阪医大・西宮医大・近平大学医学部)の中では最も偏差値が高く、畿内医大でD判定が出る受験生ならば西宮医大や近平大学ではC判定が出ることもあり得た。
「ええ、一応併願する予定で模試ではC判定を貰っています。それが何か?」
「ご子息にはもちろん畿内医大を目指して勉強して頂きたいのですが、今の時点でD判定ならこれから追い込みをかけて勉強すればC判定やB判定も狙えます。その場合は西宮医大や近平大学はB判定やA判定になる訳なので、少なくとも現役での医学部合格は確保できますよ」
受験生の母親を励ますつもりでそう言うと、
「いえ、近畿圏の4医大はすべて受験して貰いますけど、畿内医大と京阪医大以外は蹴らせるつもりです」
「えっ!?」
衝撃的な言葉が返ってきた。
「いや、ですが、今の時代にせっかく受かった医大を蹴るというのは……。西宮医大や近平大学にも受からなくて何浪もする人もいますし、現役合格の権利をあえて捨てるのはいかがなものかと」
「白神さんは自分が畿内医大に入れたからそう言えるんでしょうけど、私と夫は京阪医大出身でも散々学歴で差別されてきたんです。あの頃は関西の私立医大で自慢できるのは畿内医大だけで今はようやく京阪医大も追いついてきましたけど、それでも西宮医大や近平大学はごめんです」
「な、なるほど……」
僕は私立大学は畿内医大しか受験しなかったので詳しく調べたことはないが、現在では学費値下げ(関西最安値の約2800万円)により畿内医大に比肩するレベルと評されるようになった京阪医大は数十年前までは偏差値が10以上離れていた。
戦前において畿内医大は男子医学専門学校、京阪医大は女子医学専門学校であった点など2つの大学は立地こそ近いが歴史や伝統が異なっており、昔は京阪医大の出身者でも馬鹿にされる時代があったらしい。
それから20分ほど受験戦略に関する相談をして僕はようやく解放された。
女性は最後まで勢いが強く、息子の医学部受験に真剣になる姿勢は親として偉いものの若干前のめり過ぎるようにも思えた。
「お疲れ様。最初に言った通り、ああいう保護者が多いのが11時までのオープンキャンパスの特徴なんだ」
「ええ……」
保護者相手に疲弊している僕にマレー先輩がねぎらいの言葉をかけた。
既に時刻は10時を回っており、僕が先ほどの保護者と話している間もマレー先輩や渡部先輩は次々に来客への応対を済ませていた。
「ところで、あれ凄いですね」
「やはり気づいていたか。黒根君を呼んでよかったよ」
僕らの視線の先には黒根さんのテーブルがあり、その後方にはスタンド式のホワイトボードが置かれている。
オープンキャンパス開始前まで眠りこけていた黒根さんは今は両目を
「……この程度の構文は瞬殺して当たり前だけど一応解説するわね。どんな構文でもまず大事なのは動詞を見極めること。この文には分詞構文が使われているし、倒置文まで挟まれているから難しいけど……」
先ほどから英語→数学→英語→数学という繰り返しでノンストップで解説を続けており、通りがかった受験生は興味を引かれて続々と集まっていた。
「黒根君は家庭教師をプロ並みにやっているからこの大学の入試問題ぐらいは今でも瞬殺できるらしい。やらないとは思いたいが、本人さえやる気なら今からでも国公立大学の医学部を再受験して受かりそうだな」
「うーん、それは何か寂しいですね」
畿内医大に入学したはいいが学費や体面などの問題で国公立大学の医学部をこっそり再受験する(仮面浪人する)人は例年何人かいて、結局成功する人はほとんどいないが黒根さんならそれも成功しそうだと思った。
「まあ黒根さんは真剣に法医学者を目指してくれてるから、研究医生という今の立場を捨てることはないんじゃないかな。それに仮面浪人がばれると学長から直々にお叱りと処罰を受けるらしいからあまりお勧めはできないね」
近くの教員用テーブルから松島教授が声をかけてきた。
「じゃあ、また数学行きます。2019年度の第1問は極限で、数学Ⅲの最初の単元ね。数Ⅲっていうと微積分ばっかりに注目しがちだけど極限とか曲線の式でも難問は出せるから忘れないで。まず与えられた式のここに注目して……」
活き活きと過去問を解説する黒根さんの姿を見て、僕は彼女がこの大学に愛着を持ってくれていることを何となく理解した。
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