96 気分は理由と根拠

「どうもどうも、今更名乗るまでもないけど微生物学教室教授の松島です。白神君とは1回生の医学概論の時から知り合いだよね」


 マレー先輩と共に教授室に入るとそこにはスーツを着た中肉中背の中年男性が待ち構えていた。


 松島先生は微生物学の教授として現在2回生の免疫学と微生物学(9月になれば感染症学)の授業を担当している他、1回生の教養科目である医学概論のコース責任者も務めている。


「ええ、あの時は再試でもお世話になりました……」


 医学概論というのは社会における医学・医療の在り方を学ぶ授業で、全国どこの大学の医学部にも設置されている。


 知識を習得する科目というよりは「健康であるとはどういうことか」「医学と医療との違いとは何か」「医療職に求められる品位とは何か」といった物の考え方を身に着ける科目なのだが、この大学の医学概論の試験は何故かマークシート式で松島先生の趣味としか思えないような奇問が多かった。


 その一例を挙げると……




 問題18.以下のうち医師である人物をすべて選べ。(敬称略)

 a.手塚治虫(故人;漫画家)

 b.東川史子(タレント)

 c.田辺淳一(故人;作家)

 d.秋川草介(作家)

 e.大和田行長(評論家)



 問題29.本学の学歌(1~5番)に含まれている単語をすべて選べ。

 a.タクラマカン砂漠

 b.富士山

 c.南洋

 d.ナイル川

 e.ヒマラヤ




 といった問題のオンパレードで、1回生の後半試験では肉眼解剖学・組織学・発生学、生物学にドイツ語といった難関の科目が多いことから対策(過去問チェック)を後回しにしていた僕は医学概論で再試にかかってしまったのだった。


 再試にはちゃんと過去問を確認して臨んだし「すべて選べ」ではなく正答数が指定されていたので無事に突破できたが、こんな試験に再試料金1科目3000円を支払った時の悔しさは今でも覚えている。



「あー、そういえばそうだったかなあ。医学概論は問題のネタが尽きてきたんで今年の1回生からは記述式にしようと思ってるよ。あ、これオフレコね」

「もちろんです。それはそれとして今月はお世話になります」


 そう言ってぺこりと頭を下げると松島教授からその辺の丸椅子に腰かけるよう促された。


 微生物学教室の教授室は他の教室に比べてかなり狭く会議用のテーブルを置くスペースもないようだった。


「さて、3月は解剖学教室で免疫染色、4月は生化学教室で科学的リテラシー、5月は生理学教室で研究テーマの見つけ方、6月は薬理学教室で統計処理と習ってきて白神君の基本コース研修もそろそろ終わりに近づいてます。今月この教室で何を教えるかは結構悩んで、実は数日前にようやく決めたばっかりなんだ」

「えーと、中々決まらなかった理由というのは……?」


 松島教授に事情を尋ねると近くの丸椅子に座っているマレー先輩が口を開いた。


「ここが微生物学教室である以上まずは微生物の取り扱いや染色法、観察法を教えるのが普通なんだが2回生は9月上旬の実習で全員がグラム染色を教わって、しかも9月末には染色の手技試験がある。この過程で細菌の取り扱いは習熟するから今月教える意味はあまりないが、かといってウイルスや真菌・原虫の取り扱いを教えるのも難しい。そういう事情があるんだ」

「なるほど、微生物学に関する教育は色々特殊なんですね」


 微生物学に関しては大学の講義で習い始めたばかりだが、黄色おうしょくブドウ球菌や普通の大腸菌など比較的毒性の弱い細菌であっても正しく管理しなければ容易に感染事故が起こるし実際に近畿圏内の別の医学部医学科では学生数名が実習中に細菌に感染してしまいICU集中治療室送りになったという。


 松島教授が講義中に話した内容によると感染事故の被害者となった学生数名は実習前のオリエンテーションを真面目に聞いていなかったらしく、自らの不注意のせいで感染してしまった以上そのような学生にはそもそも医学部の実習に参加する資格がないとまで語られていた。


 それでも細菌であれば毒性の低い種を選んで医学生の実習で用いることができるが、細菌よりはるかに小さいためマスクの生地を容易に通り抜ける場合もありそもそも生物ではないため性質も細菌とは大幅に異なるウイルスではそうはいかない。


 真菌や原虫は微生物の中では比較的マイナーなので基本コース研修で取り扱うテーマとしては不適当と思われたのだろうか。



「といってもせっかく微生物学教室なんだし、白神君には7月の時点でグラム染色を見学して貰おうと思うんだ。この見学っていうのが重要で、白神君だけ7月からグラム染色の練習をすると他の学生に対して不公平になるから今月に関しては直接染色をして貰わないようにするよ。目の前でマレー君がグラム染色をするから白神君はそれをそばで見学するんだ。もちろんただ見学するだけじゃない。例えば……」


 そこまで話すと松島教授は首をひねり、しばらくしてまた口を開いた。


「白神君はBLS、つまり一次救命処置についてはもう習ったかな?」

「一次救命処置っていうと、確か心肺蘇生法でしたよね?」


 BLSという英語の略称はあまり記憶にないがそういった名称の心肺蘇生法については大学入学直後に実施された新入生合宿で教わっていた。



「そうそう。じゃあ復習だけど、もし白神君が道端で倒れている人を見つけたらまずは周囲の安全を確認するよね。それから意識があるかどうか確認するとして、呼びかけても叩いても意識が戻らなかったら次はどうする?」

「とりあえずは大声で人を呼んで119番通報とAEDの持参を頼みます。倒れている人に呼吸があるかどうかを確かめて、正常な呼吸がなければ気道を確保した上で直ちに胸骨圧迫を開始します。AEDが届いたら服を脱がせてパッドを貼り付け、電気ショックを加えても蘇生しなければ再度胸骨圧迫を行うんですよね」


 1年以上前に教わった知識を思い出して答えると松島教授は満面の笑みを浮かべて頷いた。


「うん、大体それで合ってるよ。胸骨圧迫が最も大事なのはもちろんだけど、人工呼吸はどう扱うのかな?」

「えーと、最近では人工呼吸はポケットマスクなどの器具がある場合に行うと習いました」

「その理由って一体何だと思う?」

「理由ですか? いや、それは存じ上げないです……」


 新入生合宿で心肺蘇生法を指導してくれた先生は「最近ではどのような場合でも人工呼吸を行う訳ではなく、ポケットマスクなどの補助器具がない場合は胸骨圧迫のみで済ませることもある」と教えてくれたがその理由を深く考えたことはなかった。


「当然色んな理由があるんだけど、まず道端に倒れている人はたいてい見知らぬ他人だからどういう感染症を持っているか分からないし、時には吐物とぶつで口腔内が汚染されていることもある。ポケットマスクがあれば人工呼吸時の接触感染を防げるけどそうでない場合は救助者に危険が及ぶかも知れない。人工呼吸は救急救命にもちろん有用だけれど救助者自身の安全を確保することはBLSの大原則だから、最近では人工呼吸は安全に実施可能な場合にのみ行うよう方針が変わったんだ」

「確かに、そういう事情を知っていると理由を理解しやすいですね」


 当たり前と信じている知識でも根拠を知らないとその正しさは担保されないということだろうか。



「あとAEDは心停止の人に有効って言われるけど、この心停止っていうのは心臓が全く動いていない場合だけじゃなくて心臓が動いているけど機能不全に陥っている場合もあるんだ。心臓が全く動いていない状態は心静止と呼ばれててこの場合はそもそもAEDは効かない。心停止の一種である心静止にAEDが効かない以上、本来ならAEDは一部の心停止に有効と言うべきだね。こういう用語の定義も意外と知らないでしょ?」

「えっ、ええ、全然分かってませんでした……」


 AED自動体外式除細動器は完全に動かなくなった心臓に電気ショックを与えて動かすものだと思っていたので、僕は松島教授から知らされた事実に驚いていた。


「BLSは医療従事者以外でも行えるのが特徴だから誰もが一つ一つの手技を行う理由を理解する必要はないんだけど、少なくとも医療職は理解しておかないといけない。他の医療行為や医学研究にしても同じで、決められたやり方がなぜ正しいのかを理解せずに、言ってしまえば機械的に物事を処理してしまっている医療職が世の中には少なくない。これから研究医を目指す君はそういう人間には絶対になっちゃいけないから今月はその心構えを理解して貰う研修をやる。具体的には」


 そう言うと松島教授はデスクの引き出しからA4冊子を取り出した。


「この冊子にはグラム染色のやり方を書いてある。実験室に入ってから後片付けをして手を洗うまでの流れをね。ただしそれぞれの手技を行う理由は一切書いてないから、マレー君が実際にやるのを見たり自力で調べたりした上で各項目ごとに理由を書いて僕に提出して欲しい。全項目について正解したら今月の実習はそれで終わりにしよう」


 松島教授が差し出したA4冊子を受け取って開くと、そこにはそれぞれの手技に(1)(2)(3)というように番号を振ってびっしりとグラム染色の手順が記されていた。


 教授が仰った通り実験に臨む前の身だしなみの整え方から実験後の片付けのやり方、手洗いの方法(これだけで1ページが埋まっている)まで詳細な手順が記されておりこの手順書を作るだけでも大変だったのではないかと思った。



「それぞれの手技の理由は当然教えないけど分からない用語についてはマレー君に聞いてくれれば大丈夫。また土曜日とかに時間を決めてグラム染色を見学して貰うけど、細菌を直接扱わないといっても同じ実験室に入る訳だから身だしなみのルールは必ず守ってね。マレー君、今月は白神君をよろしく頼むよ」

「もちろんです。よその教室に比べて平日の研修は少ないですし全力で指導します」


 それから二人に感謝の言葉を伝えて、僕は先輩と共に教授室を出た。

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