95 気分は深すぎる事情

 そして翌日、2019年7月2日。


 午後の授業が少し早く終わり、僕は16時には研究棟6階にある微生物学教室の会議室に来ていた。


 この階には解剖学教室や化学教室もあるため既に何度も訪れている場所である。



 肩掛けカバンを地面に置き長テーブルに並んだ椅子の一つに腰かけていると、その人は意外と早く現れた。


「やあ、白神君。今日は2回生も早かったんだな」

「ええ。医学英語のリーディングなんですけど意外と早く終わってくれました」


 この大学では1回生の教養科目の英語に加えて2回生~4回生のそれぞれに医学英語の授業が設置されており、どの学年でもリーディング・リスニング・オーラルコミュニケーションと内容別に行われている。


 学年を3つのクラスに分けて同時並行で3種類の授業が行われるがリーディングでは大量の英文を扱うため授業が長引きがちだった。


「あと20分以上あるが今日は16時半から松島教授が初回オリエンテーションを行ってくださる。もちろん俺も同席して話を聞くし、白神君に付いて直接色々教えるのは俺の役目だからできる限り努力するつもりだ。改めてよろしく頼む」


 僕の向かい側の座席に座ると先輩はこれからの予定について話してくれた。


「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします」


 マレー先輩は外見こそオタクっぽいし苦労の多い人生を送っているようだが、研究医を志すだけあってか真面目さでは他の先輩方にも引けを取らないと感じた。



 20分以上も余裕があるということで僕はとりあえず気になっていたことを口に出してみた。


「あのー、先輩。昨日はあの後大丈夫でしたか?」

「その話か。……まあ何とかごまかすことはできた」


 言うまでもなく先輩の婚約者である美波さんの話題だ。


「俺は別に三原君の存在を隠してた訳じゃなくて、そもそも美波にはほとんど部活の話をしたことがなかった。三原君には本当に美波のことを話してあるし当然だが彼女は俺にアプローチしたりしてない。なのに美波は三原君に自分から警告すると言って聞かなくて……」

「中々大変ですね。隠すも何も別の大学に通ってる先輩の交友関係に美波さんが口を出していいとは思えませんけど」


 もし先輩が最初から三原さんのことを話していたとしても、美波さんに先輩と三原さんとの単なる部活の先輩後輩としての交友関係を妨害する権利はないだろう。


「正論としてはもちろんそうだ。これは誤解しないで欲しいが美波がああなったのには理由がある。オリエンテーションまでちょっと話してもいいか?」

「もちろんです。ぜひ聞かせてください」


 先輩は誰かに話を聞いて欲しいらしく、美波さんがストーカー一歩手前になっている理由は僕自身気になっていたので頷きつつ了解の意を伝えた。



「これは話してなかったが美波は畿内歯科大学歯学部歯学科の3回生で、一つ年下だけど俺と同じ学年なんだ。今は歯科医師を目指して勉強していることになる」

「へえー、美波さんは歯医者さんになるんですね」


 性格はともかく美波さんはトランジスタグラマーな感じの美女なので、あんな歯医者さんのいる歯科医院なら受診してみたい気もする。


「といっても好きで歯科医師を目指してる訳じゃないから問題なんだ。美波は元々南東寺高校の後輩で、俺と彼女は新聞部の活動を通じて親しくなった。浪人中に海内塾かいだいじゅくの京都校で再会して、しばらくすると俺と美波は浪人生同士で付き合うようになっていた」

「なるほど……」


 予備校時代から付き合っていたカップルは現2回生にも存在するが、同じ高校の先輩後輩の関係でお互い浪人生になってから初めて恋仲になるというのは珍しいと思った。



「俺と美波は頑張って同じ医大に行こうと約束してお互い国公立では洛北大学医学部、私立では畿内医大と京阪医大に出願した。俺は三浪目に研究医養成コース入試で畿内医大に滑り込めたが美波は二浪目の受験でもどこにも受からなくて、結局は親の勧めで併願していた畿内歯科大学に進学せざるを得なくなった。美波はもう一浪して畿内医大に入りたいと食い下がったが、その理由が俺と同じ大学に入りたいからだと聞いて美波の両親はその希望を却下した。まあ普通の親なら浪人してる間に相手が他の女に乗り換えたらどうするんだと思うだろうな」

「うーん、残酷な話ですけどそれが現実ですよね」


 三浪したところで畿内医大に入れるかは分からないし、最悪の場合は大学生になれないままの娘を彼氏が捨てる結果になると考えればご両親の気持ちは理解できる。


「同じ大学に入れないことが決まって、美波は俺の部屋で泣いていた。美波なら俺なんかよりもっといい男を見つけられるだろうしこれからずっと美波を愛し続けられるかも分からないから、俺はあえて彼女に別れを切り出した。すると美波は俺の意思を尊重してくれると言った」

「えっ?」


 それならなぜ美波さんと現在婚約しているのかと聞こうとした矢先、



「ただし最後に一つお願いがあると言った上でだ。美波は別れる前に、一度でいいから自分を抱いてくれと言った。それが運の尽きだった」


 先輩は衝撃的な言葉を口にした。



「だ、抱くって、まさか」

「そういう意味だ」


 いかにもオタクなマレー先輩が童貞でないという事実はしっくり来ないが、予備校時代から付き合っていたという事実を踏まえればむしろずっと前からそういう関係になっていてもおかしくはない。



「これは白神君が男だから話せることだが、俺と美波は大学に受かるまではそういう関係にはならないと約束していた。そうでないといざ同じ大学に入れなかった時に縁を切りにくくなるからな。なのに俺はあの時、美波に情けをかけてしまった」

「それでその後はどうなったんですか?」


 無意識にゴシップ誌的な興味をそそられつつ尋ねると、先輩は腹立たしさと情けなさが混じったような声音こわねで、



「俺の部屋で初めての行為に及んでから、俺と美波は改めてお互いに別れを告げた。……その日の夜のことだ。突然実家のインターホンが鳴ったと思ったら、やって来たのは美波の両親だった。美波は親に何て言ったと思う? 『私はまれ君と将来を誓って、その証に純潔を捧げた』って堂々と嘘をついたんだぞ。当然ながら向こうの両親は大騒ぎで、そのままうちの親父と勝手に話し合って気づけば俺は美波と婚約させられていた。俺は美波にはめられたんだ」


 一息にそう答えた。



「えーと……」


 最後の一言はダブルミーニングかと思ったが、どうも冗談で済ませられる事情ではないらしい。



「勘違いしないで欲しいんだが、俺は決して美波のことが嫌いな訳じゃない。ルックスも頭も良くない俺を浪人生の頃から好きでいてくれて、身体を捧げて両親に嘘をついてまで俺を引き留めようとしてくれた美波の思いには全力で応えたいと思った。少なくとも大学生になる前の美波はまともな性格をしていたし、俺なんかにはもったいない女性だと本気で思っていた。でも、美波は俺の気持ちを理解してくれてない。医学生になった俺にはよその女が次々に寄ってくるから自分が全力で排除しなければならないと強迫観念に駆られてさえいる。……そんなことをしなくても、俺は目移りしたりしないのに」


 淡々と話したマレー先輩の目はうるんでおり、先輩が美波さんを愛している気持ちに嘘はないのだろうと理解できた。



「俺は美波を愛している。だけど俺のスマホに無断で監視アプリをインストールしたり、周囲の女性を一人残らず排除しようとしてくる美波の姿勢には本当にうんざりしてる。何とかして美波を落ち着かせて昔のような関係に戻りたいけど、どうすればいいのか全く分からない。もうお互いに大学を卒業するまで耐えるしかないのかも知れない……」


 そこまで言うと涙を流し始めた先輩に、僕は慌てて傍にあったティッシュボックスを手渡した。



 先輩はティッシュで涙を拭うと、今度は笑顔を浮かべて口を開いた。


「面倒な話を長々聞かせてすまない。女友達には当然話せないし男友達に話すと惚気のろけだとか言われてまともに聞いて貰えないから、つい喋りすぎた」

「いや、僕は先輩のお話を聞けてよかったです。いつも頼れるマレー先輩がまさかこんなに複雑な事情を抱えているとは思いませんでしたから。僕でよければいつでも話を聞かせてください」


 剖良先輩しかりヤッ君先輩しかり、研究医生には普段は明るく振る舞っていても私生活に悩みを抱えている人が多い。


 授業と学生研究の両方に真面目に取り組み部活では後輩に優しく接してくれるマレー先輩がここまで複雑な問題を抱えていたのは予想外だったが、他人に話して少しでも楽になれるのならば僕はいくらでも聞き手になろうと思った。



「ありがとう。白神君は男の後輩だから美波に直接迷惑をかけられることはもうないと思うが、話を聞いてくれただけでも本当に嬉しかった」


 先輩はそう言うと腕時計に目をやり、


「もうこんな時間か。今から教授室に行けばちょうどいいから付いてきてくれ。個人的に色々あっても白神君の指導には全力を尽くすぞ」


 巨大なスポーツバッグを手に取って立ち上がった。


「はい、よろしくお願いします!」


 僕も元気よく答えて、そのまま先輩に追従して会議室を出た。

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