64 気分は婚約者
「おっと、ちょっと着信が入ってるので少し抜けます」
飲み会もたけなわとなってきた頃、マレー先輩はスマホの着信に気づいて他の部員に挨拶してから席を立った。
それからすぐ僕も生ビールを2杯飲んだからかトイレに行きたくなり、他の3名に一言伝えて立ち上がった。
ここのトリッキーはビルの2階にありトイレは店内ではなく店の奥のドアから出て外廊下を進んだ先にある。
男子トイレに向けて歩いていると、僕は外廊下の突き当たりでマレー先輩がスマホで通話しているのを目にした。
これといって盗み聞きをしようとした訳ではないが先輩はトイレの入り口から近い距離で話していたので自然と会話が耳に入った。
「……ああ、そうそう。ちょうど部活の飲み会に来てるんだ。後輩男子が二人も増えてすごく盛り上がってて……え、女の子? 一人だけだよ。嘘じゃないって。本当に女の子は一人だけだし二次会にも来ないから。……来たら断れって? いや、それは流石に……」
何というか危険そうな会話だったので僕はスルーしてそのままトイレに入った。
用を済ませてトイレから出ると、ちょうど通話を終えたらしいマレー先輩と鉢合わせた。
「先輩お疲れ様です。電話は終わったんですか?」
「ああ、ちょっと親から野暮用でな。まあ気にしないでくれ」
普段なら先輩の返事をあっさり流す所だが、少し酔っていたからか僕は触れてはいけない話題に突っ込んでしまった。
「へえ、先輩の親御さんは飲み会に女の子が来てるか気にされるんですね」
「…………」
先輩の顔が凍り付いたのを見て、僕は即座に自分が爆弾発言をしたことを悟った。
「あ、いや、すみません、盗み聞きしてた訳じゃなくて偶然耳に入って……」
「大丈夫だ、全然怒ってないから。……そうだな、白神君にはどうせ話すと思うし言ってしまってもいいか」
マレー先輩はそう言うと夜風の吹き抜ける外廊下の壁際にもたれかかった。
その様子を見て僕も恐縮しつつ隣に並んだ。
「あのな、さっき俺に電話してきたのは本当は親じゃないんだ。まあ何となく分かるだろう?」
「えーと、彼女さんですか?」
会話内容から察して答えたが、もしかするとブラコンな妹さんとかかも知れないと思った。
先輩は軽く首を振るとうんざりした表情で、
「そうとも言えるが少し違う。……彼女じゃなくて、俺の婚約者だ」
「ふぁっ!?」
思わず変な声が出た。
文芸研究会という男だらけのオタクな部活の主将を務めているマレー先輩は当然私生活でもリア充とは程遠くて、イメージ的には美少女キャラクターの抱き枕を使っていそうだと思っていた。
それが、彼女をすっ飛ばして婚約者がいるという。
「ああ、大体君が考えていることは分かる。こんなダサくてオタクな男には婚約者どころか彼女がいるのもあり得ないだろうってな。もっともな疑問だよ」
「い、いえ、そこまでは思ってません」
頭を下げて言ったものの完全に図星だった。
「彼女は別の大学に通ってて、一つ年下でも学年は同じなんだがとにかく嫉妬がひどい。俺を好きでいてくれるのは本当にありがたいけど夜でも頻繁に電話してきて、女の子と一緒にいたりしたらもう大変だ。うちの大学に乗り込んできたことも何度かあって3回生には悪い意味でよく知られてる。今日にしても三原君が二次会に来てくれたら大騒ぎになるかも知れん。ああもう…………」
先輩は一息に言うとそのまま頭を抱えた。
話を聞く限りストーカー一歩手前の婚約者だが、よほどモテない女の子なのだろうか。
「何というか、お疲れ様です。マレー先輩にはお世話になりますし僕でよければまたお悩みを聞かせてください」
先輩の姿には哀愁が漂っていたので、僕は流石にかわいそうになって静かに声をかけた。
「ありがとう。同級生のヤミ子君とか剖良君にも相談してみたいんだが、あの子らはとても美人だから下手に相談するとまたトラブルに巻き込みそうでな。ヤッ君は……いやまあそれはいいんだが、ともかくまた話を聞いてくれたら嬉しい」
「もちろんです!」
ヤッ君先輩は男なので問題ないはずだが何か事情があるのだろうか。
ともかく僕は明るく答え、そのまま先輩と一緒に飲み会の席へと戻った。
まだ先のことは分からないがマレー先輩の個人的な悩みにもそのうち付き合うことになるような気がした。
僕に平穏な日々が訪れるのはいつになるのかさっぱり分からない。
飲み会はその後すぐにお開きとなり、マレー先輩の提案で二次会には駅前のカラオケ店ジャッカルに行くことになった。
土師先輩は5回生なので病院実習で疲れており女子学生である三原さんは遅く帰ると親に怒られるということで、僕は佐伯君と共にマレー先輩に連れられてカラオケを楽しんだ。
「イナズマ・マジカル・ガールズ! あなたのハートに電光放射!」
「先輩、ナイスですー!」
深夜番組らしい魔法少女アニメの主題歌を絶唱するマレー先輩に佐伯君はノリノリで声援を送っていた。
苦笑しつつ拍手しながら、僕は忙しい日々の中でリラックスできる機会のありがたさをしみじみと感じた。
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