2019年6月 薬理学基本コース

63 気分は男どもの楽園

 2019年6月1日、土曜日。時刻は夕方18時頃。


 阪急皆月市駅前にある焼鳥居酒屋チェーン店「トリッキーインフィニット」で、僕はかなり久々に生ビールを飲んでいた。


「……ぷはぁっ、旨い!」

「いい飲みっぷりだ白神君! それでこそ我らが文芸研究会に相応ふさわしい」


 6人掛けのテーブルの向かい側から物部もののべ微人まれひと先輩、通称マレー先輩が声をかけてくれる。


「こんなに旨い酒飲んだの本当に久しぶりです。もう最近は本当に大変で、大変で……」


 2本セットで運ばれてくる各種の焼鳥や価格の割にボリュームのある唐揚げに手をつける前に、僕は生ビールを机に置いて涙を流し始めていた。


「あれっ、白神先輩は泣き上戸じょうごなんですか?」


 茶化しつつも心配した表情で隣の席(3人並ぶ座席の中央)から1回生男子の佐伯さえき君が尋ねてきた。


「あ、いや何でもないよ。色々あって2回生から帰宅部になって、あんまり飲み会とかにも行けてなかったんだ」


 おしぼりで涙を拭いつつ佐伯君を安心させるように言った。


「なるほど、それだけビールも美味しく感じる訳ですね。僕もご飯美味しいです」


 90kg以上はありそうな巨体に笑顔を浮かべながら、佐伯君は先ほど運ばれてきたフライドポテトを口に放り込みつつ塩キャベツをかじった。


 彼は二浪しているので1回生でも成人しているが酒はあまり好きでないらしい。


「はははは、佐伯君も白神君も新入部員が飲み会を楽しんでくれて何よりやなあ。去年は医学部誰も入らんくてどういうこっちゃとおもたけど、今年ばかりはマレーにも頑張って貰わなあかんな」

「先輩の仰る通りです。不肖ふしょうながらご期待に沿えるよう頑張りましょう」


 ハイボールでいい感じに酔っぱらった5回生の土師はじ先輩の言葉にマレー先輩はかしこまった様子で答えた。


 土師先輩は文芸研究会の先代主将で昨年度に2学年下のマレー先輩に主将の座を譲ったという。


「いやー、男子諸君の盛り上がりようには拙者も感服です。次期主将としてマレー閣下のクラブ運営を見習って参りますぞ」


 三つ編みの髪型に丸眼鏡、そして独特過ぎる服のセンスが特徴的な彼女は看護学部2回生の三原さん。


 この場にいる唯一の女子部員で、1回生の頃から精力的に活動していたことから文芸研究会の次期主将の座が内定しているという。


「そうだなあ、三原君には俺なんかを見習わずにもっと文芸研究会の魅力を深めて貰いたいな。まあ今は難しい話はなしにしてどんどん飲みましょう。改めて乾杯!」


 カンパーイ! という掛け声で僕ら5名は意味もなく再びグラスをぶつけた。


 カツンという音が繰り返し響いた後、僕は再び生ビールをぐいと飲んで心地よい気分に浸っていた。



 思えば今年の3月から5月まで、月替わりで研究医養成コースの女子学生3名とずっと一緒に研修を受けていた。


 3月は解剖学教室の解川ときがわ剖良さくら先輩、4月は生化学教室の生島いくしま化奈かなさん、5月は生理学教室の壬生川にゅうがわ恵理えりさん。


 どの女の子もすごく優しくて美人で学生のうちから真面目に研究に取り組んでいる点で共通していたが、僕が彼女たちの抱える問題に振り回された点も共通していた。


 大切な親友への叶わぬ恋心に悩む剖良先輩、従弟いとこからの求愛に難儀するカナやん、大学での振る舞い方を変えようと悪戦苦闘する壬生川さん。


 彼女たちの直面する問題はどれも大変なもので、研究医養成コースの研修でお近づきになった僕が相談に乗るのは分かる。


 ただ、報酬につられてとはいえカナやんの実家にまで足を運ばされたり壬生川さんが僕と中学校の同級生だったと知らされ、しかも当時から好きだったと告白されたりしたことは僕を激しく疲労させていた。


 学内でも人気が高い女子学生と親しくなれて何が不満なのかと言われそうだがただでさえ忙しい大学の講義・実習に加えて放課後と土曜日には基礎医学教室での研修を受け、たまの休みにも彼女たちに付き合っていたのだから本当に休む暇がなかった。



 僕は今文芸研究会の飲み会に参加していて、看護学部生の三原さんを除いてはむさ苦しい男だらけで焼鳥や小料理をつまみつつ酒をみ交わしている。


 マレー先輩と初めて会った時に文芸研究会の説明会について案内を受けていて、今日は先輩からメッセージアプリで連絡を貰って昼から部室を訪問した。


 そこでは現役部員であるマレー先輩と土師先輩、三原さんが待機していて、同じく新入部員候補として招待されていた佐伯君と一緒に僕は文芸研究会の活動に関するオリエンテーションを受けた。



 文芸研究会は小説やエッセイなどの文章を書くことを活動の中心とする文化系クラブで、部員が書いた作品を部誌にまとめて定期的に刊行している。


 刊行された部誌は学内のいくつかの場所に常設されていて、僕も以前から第二講堂前のロビーなどで部誌を見かけたことがあった。


 部誌刊行のための作品提出は強制ではなく読書会などの活動にも参加は任意で、何より飲食費以外の部費が一切かからないと聞いて僕は文芸研究会への入部を決めた。


 家庭の事情で剣道部を辞めてからはずっと帰宅部でお金のかからない文化部に一つは入っておきたいと思っていたので、定期部費がゼロの文芸研究会に誘われたことは渡りに船だった。



 部室での説明会は即興作文などのイベントもあって大いに盛り上がり、その場で僕と佐伯君が入部を決めたことから終了後はその場にいた面子でそのまま飲み会を開催することになった。


 マレー先輩の発案で駅前のトリッキーが会場となり僕らはこうして現在まで飲み会を楽しんでいた。


 本来ならば飲食費が無料になるのは1回生だけだが、この飲み会は部員同士が非公式に開催したものなので今日だけ新入部員特典で2回生の僕もおごって貰えることになっていた。



 マレー先輩も土師先輩も佐伯君も非常に話しやすい男子学生で三原さんもこの大学には珍しいオタク女子なので、初対面の相手が3人もいても僕は全く緊張せずに済んでいる。


 男だらけの環境で気楽に生ビールを飲める状況になって、僕はここ3か月自分が心から休めていなかったということに改めて気づいた。


 部活や大学生活の話題で盛り上がりつつ僕は自分が楽園にいるかのような感覚になっていた。

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