62 気分はハレの日

 壬生川さんが嫌われ者の瀬口さんを成敗したことはすぐに学年内に知れ渡り、僕は今回の件で彼女が悪目立ちしてさらに孤立してしまうのではないかと本気で心配した。


 しかし、世論というのはよく分からないもので……



「恵理ちゃーん、来週の練習なんだけど集合場所って体育館だっけ?」

「違うわよ美佳ちゃん、来週はミーティングだから講堂前ね」

「ありがと。そういえば今日の眼鏡すっごく似合ってるよ」

「そう? これから練習のない日は眼鏡で通すから、そう言って貰えると嬉しいわ」


 事件から3日経った木曜日の放課後、壬生川さんは第二講堂で女子バスケ部の友達と楽しそうに会話していた。


 話している相手の進藤美佳さんに限らずあれから彼女は女友達を名前で呼べるようになって、ゴージャスなファッションでなくとも周囲に受け入れられていた。



「ちょっと今から白神君と用事だから。また明日」

「はいはい、お邪魔虫は退散しまーす」


 第二講堂の座席から立ち上がりつつ壬生川さんがそう言うと進藤さんは冗談めかして返事してから講堂を立ち去った。


 つかつかと歩み寄ってきた彼女はスポーツバッグを肩に掛けると、


「さあ、そろそろ行きましょ。今日中に発表会の資料をまとめるのよ」


 僕を見下ろして言った。


 こくこくと頷いて立ち上がった僕は周囲の視線を集めつつ壬生川さんに追従した。



 人気ひとけの少ない放課後の廊下を歩きながら僕は彼女に話しかけた。


「あの、聞くまでもないかもだけどあれから困ったことはなかった?」


 2日前の火曜日は女子バスケ部の練習がなかったので放課後に会っていたが、その時点ではあえて瀬口さんとの一件は話題にしていなかった。


「ぜーんぜん。あんたは先に帰ったから見てなかったでしょうけど、あたしの班の実習が終わった後は大変だったのよ。瀬口さんの悪口で皆盛り上がって何人もの友達にお礼を言われたわ。火曜日の放課後なんてもっと凄かったんだから」


 火曜日は講堂前のロビーで待ち合わせていたが、来るのがやたら遅かったのはそういう事情だったらしい。



「そうなんだ。でも壬生川さんは本当に偉いよ。これまで男子は散々嫌な思いをさせられてきたし、僕らも瀬口さんがダウンしてくれて助かった。本当にありがとう」


 そう言ってぺこりと頭を下げると壬生川さんは突然立ち止まった。


 ちょうど図書館の前で彼女は僕の顔を見据えると、



「あんたね……にぶいのもそこまで来ると犯罪よ」


 ぽつりと言った。



「えっ、どういうこと?」


 意味が分からず聞き返すと、



「いくら同級生が迷惑かけられてたってどうでもいい男のために教える側の人に楯突く訳ないじゃない。あんたが何の落ち度もないのに嫌がらせされてたからどうしても腹が立ってあんなこと言っちゃったのよ」

「壬生川さん、それって……」


 言いたいことを察して呟くと、壬生川さんは突然スポーツバッグを床に落とし、



 不意を衝く勢いで、正面から僕に抱きついた。



「……はっ?」


 意味不明の事態に変な声を上げていると、彼女は両腕で僕をギリギリと絞めつけた。


 力が強すぎて普通に痛いが彼女の豊かなバストが胸部に密着し、痛さと気持ちよさが融合した奇妙な感覚に襲われた。



「どう思ってるか知らないけど、あたしのことをまた忘れたりしたら許さないから。……絶対よ」


 そう言って10秒ぐらいしてから彼女はようやく僕を放してくれた。



「これぐらいすれば、もう忘れられないでしょ?」

「いや、それはよく分からないけど……あっ」


 してやったりという表情で言う彼女に返事をすると僕は図書館から出てきた人影に気づいた。


 それはもう何というか先ほどの場面を最も見られてはいけない人で。



「か、カナやん!!」


 ここ最近でも最大の絶望感で叫ぶと、医学書を借りに来ていたらしい彼女は1000ページ以上ありそうなハードカバーを床にドスンと落とした。



「あ……あの、うちは別に」

「違うんだ、これは。いや違わないけど、その」


 慌ててハードカバーを拾って立ち去ろうとするカナやんに僕は完全に取り乱しつつ弁解しようとした。



 その時。



「カナちゃん!」


 彼女の方を向き、壬生川さんが強い調子で呼びかけた。



「いや、うちは別に何ともおもてないで。せやから」


 早口で取り繕おうとするカナやんに壬生川さんは有無を言わせず歩み寄ると、そのまま先ほどと同様に抱きついた。


 表情が彫像のように硬直したカナやんに、



「前にも話したけど、この間は本当にありがとう。カナちゃんがあの時成宮先生の名前を出してくれなかったらもっと大変な事態になってたと思う。あたしカナちゃんのこと大好き!」


 抱きしめたまま右手で頭を撫でつつ壬生川さんは一息にそう伝えた。


 それからまた10秒ほどでカナやんを放すと、彼女は相手の眼を見据えて、



「白神君もカナちゃんも、同じ研究医生の大切な仲間。これからもずっと友達でいてね」


 ほがらかに言った。



「……もちろんやで! 壬生川さん最近うちのことも名前で呼んでくれて嬉しいわ。イメチェンも見事やし、こちらこそずっと仲良くしてな」


 カナやんも元気に返事するとハードカバーの医学書を普通に拾い、僕らに手を振って第二講堂の方へ歩いていった。勉強会でもやっているのかも知れない。




 それから壬生川さんと無言のまま並んで歩き、研究棟2階のエレベーター前まで来ると、


「はあーっ……疲れたわ……」


 彼女はものすごく大きなため息をついて言った。



「えーと、あの、さっきのは僕もカナやんもハグしたくなるぐらい大事な友達だという意味でいい?」


 混乱したままの思考で尋ねると、



「……あんた、やっぱりバカなのね」


 辛辣なコメントが返ってきた。



「面倒だからもう言っちゃうけど、あたしは松山にいた頃のあんたが好きだったし今のあんたも好き。だけどあんたがデレデレしてくれてたのはゴージャスなお嬢様を装ってたあたしだし、その意味ではまだ知り合ってたった1か月なの」

「あ、そう。……って、ええ?」


 あっさり好きだと告白され、僕は一連の流れを現実のことと思えなかった。



「だから今はあんたと付き合えない。あんたの側が付き合いたいと思うかは置いといて、あたし自身がまだ自分を認められないの」


 そこまで言うとちょうどエレベーターが到着した。


 上昇するエレベーターの中で、彼女は僕の方を向いて再び口を開く。



「お弁当はもう作ってこないし来月からは授業以外で定期的に会ったりもしなくなるから。でも今のあんたは少なくとも貴重な男友達だから、たまには二人で遊んだりカラオケ行ったりご飯食べたりしましょ。それでいい?」

「別にいいけど、それって半分付き合ってることにならない?」


「……バカっ!」


 疑問点を指摘すると、彼女はそう言って顔を背けた。




 その翌日生理学教室で大々的に行われた発表会に、壬生川さんはゴージャスなお嬢様の装いで現れた。


 メイクもファッションも完璧と言うほかなく、場所が場所なので靴はスニーカーである以外は僕の印象に残っているところの壬生川さんの姿だった。


 彼女はここ最近のスランプを跳ね飛ばすほどの素晴らしい研究テーマを5本発表して、参加した先生方は満場一致で僕の発表より壬生川さんの発表の方が面白いとコメントした。



「いやあ、今月は面白かったねえ。壬生川さんが最近元気ないみたいで心配してたけどどうやら杞憂だったようだね。本当に素晴らしかったよ」


 発表会の終了後、僕らは教授室で天地先生にねぎらいの言葉を貰っていた。


「うちの教室というとゼブラフィッシュを使った実験が有名だけど、その辺は来月の生理学実習で見て貰うし興味があれば来年からどんどんやってくれればいい話だしね。研究テーマを必死で探すのもいい経験になったでしょ」

「はい、本当にそう思います。壬生川さんに助けられてばかりでしたけど僕自身も成長できたと思います」


 頭を下げて言った僕の横で、壬生川さんはいつにも増してニコニコしていた。



 今日はちょうど5月31日で、この時をもって生理学教室の基本コース研修は終了した。


 来月は薬理学教室で頑張ってねと天地教授に告げられ、僕は4月中旬に会って以来の薬師寺やくしじ先輩、通称ヤッ君先輩のことを思い出した。



 生理学教室を後にした僕らは下降するエレベーターの中でまた話していた。


「そういえば、その格好……」

「ああ、これね。日本の文化でハレの日とケの日っていうのがあるけど、今度からは特別なタイミングだけこの格好で来ようと思って。いつも地味な格好じゃ面白くないでしょ?」

「なるほど。そのアイディアすごくいいと思うよ」


 ファッションの問題を最も上手な形で解決した彼女に僕は賛辞を送った。



 エレベーターを降りて研究棟1階で別れる前に僕らはもう少し話していた。


「最後に言うけど、今月はあたし個人の問題で色々振り回しちゃってごめん。もう誰も変な噂はしてないけど心配かけて悪かったわ」

「いやいや、僕は全然いいよ。何というか、ほら、皆が憧れる壬生川さんと一緒にいられたんだから色々あってもラッキーだったよ」


 率直な感想を伝えると彼女は少し目線を逸らして、



「……じゃあ、あたし個人の問題じゃなくて二人ふたりの問題になってもいいってことね」


 ぽつりと呟いた。



「えーと……」

「それじゃ今月は色々ありがとね。また来週!」


 若干無理やりな感じで会話を打ち切ると、彼女は早歩きで研究棟を出ていった。



 今月は本当に大変だったが、嬉しいことも沢山あった。


 それは当然そうなのだが……



「ああ、疲れた…………」


 大きなため息をついて僕は床に倒れ込みそうになった。


 まさか自分に、リア充と呼ばれる人々の大変さを何となく理解できる日が来ようとは思わなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る