58 あの時紡ぎ合った言葉
2013年3月。季節が次第に春の足音を響かせ始める頃。
松山市立第一中学校の卒業式当日。
私、壬生川恵理は教室で彼を待っていた。
あの頃の私はクラスでも目立たない女子生徒で、地元のチェーン店で作って貰った眼鏡をかけてお世辞にもお洒落とは言えない制服に身を包んでいた。
卒業証書以外ほとんど何も入っていない制カバンは生まれてから松山で過ごした15年間を象徴しているようで、私は今でも幼い頃の思い出にありがたみを感じない。
それでも、あの頃の私にとっては愛媛県松山市という狭い世間が自分の世界の全てだった。
「……あっ、壬生川さん。ごめん、剣道部の後輩に捕まって中々来れんかった」
誰もいない教室の引き戸を開けて入ってきたのはクラスメートにして剣道部員の白神塔也だった。
「ええんよ。うちがいきなり呼んだのに来てくれてありがとう」
本当は来てくれるかどうか不安だったのに、私は何事もなかったような態度でそう答えた。
彼が地元の塾で直前期の勉強をしている頃、私は両親に連れられて飛行機で京都に行って進学先となる立志社女子高校の入学試験を受けていた。
松山の住居は既に引き払い、両親は大阪府枚方市の新しい家で暮らしている。
卒業式には
「壬生川さん、高校からは大阪に引っ越すんよね。ちょっと前まで知らんかったけん驚いたわい」
「お父さんが大阪の予備校で働くことになって、うちとお母さんも付いてくんよ。皆と離れるんは寂しいけど、もう入学先も決まったけん……」
彼が口にしたのは目の前の私に投げかけられる唯一の話題だった。
明るく真面目で成績優秀な彼は昔からクラスの中心人物で、私のことは友達の友達ぐらいにしか思っていなかったのだろう。
「そんで今日は俺に何かあったん?」
3年C組の教室の中央で、彼は私に自分を呼び出した理由を尋ねた。
「あのね。……引っ越してからやとどもこもならんけん今言うね。ずっと言いたかったんけんど、うちは……」
白神君のことが、好きだった。
そう言おうとしたけれど、私の口はうまく動いてくれなくて。
「……白神君のこと、かっこいいと思うてた」
「そうなん? 良かないことでのーて安心したわい」
わざわざ呼び出す理由になっていないことしか言えなかった。
それから世間話のようなことをして広く浅く中学生活を振り返り、彼から別れの挨拶をされる前に私は話を打ち切って中学校を去った。
翌日、祖父母に見送られて大阪に向かう飛行機に乗り込んでから私は窓際の狭いシートでしばらく涙を流していた。
あの頃の白神君はクラスで一番勉強ができる剣道部のエースで、そして広い一軒家に住んでいる地元の開業医の息子で、彼に思いを寄せる女の子も少なくなかった。
その一方、彼自身は中3の夏まで毎日のように剣道の練習に励んでいて、それが過ぎると地元の公立進学校に合格するための勉強に励んでいたから色恋沙汰には無縁だった。
彼がいつか将来は伊予大学の医学部に行って父のクリニックを継ぎたいと話しているのを聞いて、私とは遠く離れた世界に行ってしまうのだと思った。
都会の女子校で過ごすようになって私の生活と私自身が一変してからも彼のことは時折思い出して、今頃は何をしているのだろうと考えていた。
私が医学部受験に失敗して二年間も浪人している間に、彼は既に伊予大学の2回生になっているのだろうか。
私がもし医学部に入れたとしても、京都や大阪と愛媛とでは顔を合わせることもないだろう。
そんな風に思っていたから、2018年の4月。
畿内医科大学の入学式で彼に再会した時は、不思議な運命の巡り合わせを感じた。
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