59 本当の自分はどこにいるとか
「……以上が本日の研究テーマです」
2019年5月24日、金曜日。時刻は17時少し前。
前回よりやや分量の少ないレジュメを最後まで読み上げると、白神君は軽く頭を下げて会議室の椅子に座った。
「お疲れ様。僕は今日が初めてなんで前回までのことは分かんないけど、ちょっとネタ切れ気味なのかな?」
ちょうど教授会議の予定が入った天地先生の代わりに今日は生理学教室講師の三木村先生が研究テーマ発表会に参加していた。
「今日で15本目になるので探してくるのには苦労しました。僕らが自分で面白いと思えるテーマという指定なんですけど意外と難しいです」
三木村先生のコメントに白神君は苦笑しつつ答えた。
「いやいや、白神君のは僕も聞いてて面白いと思ったよ。学生研究は始めたばかりらしいからまだ粗削りな面もあるけど、これからに期待できるね。どちらかというと壬生川さんの研究テーマにはもうちょっと工夫が欲しいかな」
白神君の姿を見ながらいつの間にか上の空になっていた私は、三木村先生の話を聞いていなかった。
「? あの、壬生川さん?」
先生の呼びかけに私はようやくはっと気づいて、
「あっ、すみません。私、ちょっとぼーっとしちゃってて」
椅子からドタンと飛び起きそうになりながら返事をした。
「ははは、壬生川さんでもそんなことあるんだね」
「壬生川さんは元々バスケ部の練習で忙しいのに最近は放課後も僕の研究テーマ探しに付き合ってくれてるんです。苦労かけてしまって申し訳ないです」
笑いながら言った三木村先生に白神君はさりげなくフォローを入れてくれた。
「来週は最後の発表会らしいね。天地先生は絶対に出席してくれるらしいし僕も空いてたら参加するよ。毎日大変なのはもちろん分かるけど、壬生川さんも来週はもっと面白いのを考えてきてね?」
三木村先生は最後にそうコメントして、来週の発表会について簡単に説明すると会議室を後にした。
先生が立ち去った後は先週まではすぐに会話が始まっていたけど、今日はどちらからも話すきっかけをつかめなかった。
「……あの、今日もお疲れ様です。壬生川さんの発表、僕はどれも面白いと思ったよ」
「ありがとう」
そのまま沈黙が流れる。
「……来週で生化学実習も終わりだけど、先輩から何か試験の情報聞いてない?」
「私はあんまり。過去問とかも皆が持ってる資料しか持ってないわ」
会話が始まりかけてやはりすぐに終わってしまう。
手持ち無沙汰になりしばらく丸椅子で軽く左右に傾いていた白神君が、突然立ち上がった。
そのまま帰るのかと思いきや彼はつかつかと私の方に歩み寄ると私の真横の椅子に腰かけた。
驚いて彼の方を見ると白神君は私の顔を凝視して、
「壬生川さん。聞きたいことがあるんだけど」
力強い口調でそう言った。
彼の真っすぐな瞳は田舎の中学校で人望を集めていた頃のままで。
私は何も言えなくなって、そのまま息を呑んだ。
「……あっ、ごめん! 全然変な話じゃないから!」
慌てて謝りつつ顔を背けた彼は私が知っている今の白神君だった。
「いいの、分かってるから。……白神君が何を聞きたいのか」
私はそう口にして白神君に正面から向き合った。
「先週まであんなにラフな格好にして大学デビューとか言ってたのに、どうしていきなり元に戻したのかって話でしょ?」
問いかけると白神君はこくこくと頷いて、
「友達からさりげなく聞いてみようかと思ったけど、女子バスケ部員に他の友達はいないから聞き出せる相手が誰もいなくて。……もしかして誰かに何か言われたの?」
「……うん」
そう答えて頷くと、私は女子バスケ部の主将の発言であることは隠した上で学内である程度広まっているらしい白神君に関する噂について伝えた。
「えっ? 僕、壬生川さんに貢がせてるって思われてるの!?」
「要するに、そういうこと」
白神君は驚きながらそういえば最近女子の態度が冷たいと感想を口にした。
「当然そんなことは一言も言ってないけど、私がいきなり安っぽいファッションになって白神君にお弁当作ってきたりしたから誰かが勘違いしちゃったみたい。……本当にごめんなさい」
白神君への申し訳なさで頭が一杯になって、私は椅子に座ったまま頭を下げた。
「いや、まあ僕は特に困ってないし別に気にしなくていいよ。でも誤解は解かなきゃね」
本当に何事もなさそうに笑いながら彼はそう言った。
「そうだ、5月が終わったら僕と一緒にいる必要はないんだし6月からもあのラフなファッションで通せばいいんじゃない? 僕と交流せずにあの感じで通せば誰も貢いでるなんて思わないだろうし。それでどう?」
その何事もなさそうな態度に、私はやりきれない悔しさを覚えて。
「……それで、また私のことを忘れておしまいにするの?」
低い声でそう口にしてしまった。
「えっ?」
「いくら大学デビューができても何も悪くない男友達に悪い噂流させてせっかくできた関係もなかったことにして、ずっと他人行儀にして過ごすなんてごめんだわ。二浪もして大学に入って初めてできた男友達を傷つけて、楽に生きられるはずがないじゃない」
「い、いや、落ち着いて。僕はそこまで気にしてないから」
早口でまくし立てる私に白神君は必死で気を遣いながら言った。
そんな彼の優しさが、今日の私にはどうしても許せなくて。
高速で椅子をスライドさせると、私は彼の頬を右手で打った。
呆然とする白神君に、
「私はあんたみたいな男をずっと覚えてたんじゃないわ。目立たなくていつも人に気を遣ってて、欲望に忠実でお金に困ってて、だけど……」
怒鳴りつけるようにそこまで言うと両目から涙が溢れてきて、私はそれ以上何も言えなくなった。
涙目で彼を睨みつけながら椅子から立ち上がると、私は小さなバッグを手に取ってそのまま逃げるように会議室を出ていった。
早歩きでエレベーターに乗り込むまで白神君の足音が聞こえてくることはなかった。
下降するエレベーターの中で涙を流しながら、私は自分自身が一体何者なのかを考えていた。
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