56 ブレイク・マイ・シェル

 2019年5月22日、水曜日。時刻は17時30分。


 女子バスケ部の練習の前半が終わり、後半開始までの15分間の休憩時間に壬生川恵理はロッカールームの洗面台に向き合っていた。


 先週から大学には眼鏡をかけたまま登校してコンタクトレンズは部活の開始前に装着するようにしているが、今日は練習に遅れそうだったので慌てて着けていた。


 練習中からコンタクトレンズが少しずれていることには気づいていて、つい先ほどはボールが顔面に当たりそうになったので休憩時間に入るとすぐに着け直しに来たのだった。



 コンタクトレンズを丁寧に着け直すと恵理は鏡で自分の顔を見た。


 長い黒髪をヘアゴムで一本に括り大学のロゴが入ったウェアを身にまとった練習中の姿は以前から変わらないままで、唯一の違いは化粧を薄くしたことだけだ。



 先週からブランドの服を着るのをやめて普段は眼鏡で通すようにした。


 今週からは教科書の一つも入らない高級バッグではなく頑丈なスポーツバッグを使うようにした。


 ハイヒールはとっくに履かなくなって、今は毎日スニーカーで登校している。


 メイクも徐々に薄くしていて、化粧に使う時間が減ったことで弁当を作る手間を含めても朝はゆっくりできるようになった。


 過度に着飾らない生活はとても気楽だし両親もまだ変化には気づいていないようだが、今の自分は友達からはどう見えているのだろうかと思った。



 研究医養成コースで白神塔也と交流を持つようになってから、恵理は彼との関係を利用して改めて大学デビューを行おうとしていた。


 立志社女子高校に通っていた頃からこの大学に入るまで、都会の華やかな女子学生に合わせようと恵理は常に完璧なファッションに身を包んでいた。


 違和感を覚えるようになったのは大学に入って半年ほど経った頃で、入学したばかりの頃はたまにいるお洒落な女子学生の一人だった恵理はいつの間にか学年内で浮いた存在になっていた。



 6年かけて医師を養成する医学部医学科といっても入学後半年ほどは教養科目の授業しかないので、1回生の中頃まではメイクやファッションを細かく考える女子学生も多いがある時期を過ぎるとそういった人物は珍しくなる。


 危険な試薬や大量の動物を扱う化学・生物の実習では身だしなみにも厳しい制約があり、爪は短く切りそろえていなければならないし靴はスニーカーが必須。


 コンタクトレンズは眼に劇薬が飛び散った際には危険極まりない凶器と化すし、長髪の女子学生は必ず髪を括っていなければならない。


 身だしなみの規則があるのは実験だけではなく、年間に数日実施される早期体験実習では附属病院で患者の前に出るためマニキュアや染髪、アクセサリーの着用はご法度となっていた。



 大抵の女子学生は上級生を含む他の学生と交流する中で大学の雰囲気に順応してメイクやファッションにはそれほど気を遣わなくなっていくが、恵理だけは様々な要因でそうならなかった。


 二浪の末研究医養成コースでようやく畿内医大に滑り込んだ恵理は進級に支障がないよう、入学時から入る部活は一つだけと決めていた。


 高校ではバスケットボール部に所属していたのでこの大学にも女子バスケ部があると聞いた時点で迷わず入部を決めた。



 ただ、女子バスケ部は他の部活と異なり男子部員が皆無で運動部の中では比較的忙しいので兼部もしにくく、結果として部員の数自体が少ない。


 学内における恵理の人間関係はどうしても閉じたものになってしまい、部活外で聞こえてくるのは自分の美しさを噂する男子学生の声だけだった。


 男友達がほとんど皆無である一方で男子全般からの人気は高いと自覚していた恵理は、身だしなみに気を遣わなくなるチャンスを逃したままここまで来てしまったのだった。



 入学した時点で塔也が自分を思い出してくれていれば、もう少し早く殻を破れたのだろうか。


 そう思っても時間は巻き戻せないので恵理はこれからの身の振り方を考えていた。



「……ちゃん、ねえ、大丈夫?」


 鏡を見つめて考え事をしていた恵理は右隣の洗面台から声をかけてきた相手に気づいていなかった。


 肩を叩かれてようやく反応し、目をぱちくりさせながら振り向くとそこにいたのは女子バスケ部の4回生である金森かなもりだった。


「あっごめんなさい、金森先輩……」


 主将である金森を無視してしまっていたと知り恵理は慌てて頭を下げた。


「いや、いいの。考え事してたんだよね」

「ええ、少しだけ。先輩、私に何か……?」


 苦笑しながら答えた金森に恵理は用件を尋ねた。



「あのね、恵理ちゃん。最近学内で雰囲気がガラっと変わったって聞いたんだけど、何か普段の生活で悩んでることはない?」


 洗面台の前に置かれた丸椅子に腰かけ、金森は真剣な表情でそう口にした。


「え、ええ……?」

「恵理ちゃんはあんなに綺麗でゴージャスだったのに突然安っぽいファッションになって、いつも誰か男の子と一緒にいるって聞いて。その子に毎日お弁当作ってあげてるらしいけど、まさか貢いでるなんてことは……」


 自分の行為がとんでもない誤解をされていると知り恵理は混乱した。


「いえっ、貢いでなんかないです! 白神君とは学生研究の関係で仲良くしてるだけで、それに……」


 大学に入る前から知り合いだったと言おうとして、恵理は口をつぐんだ。


 塔也は自分のことを完全に忘れていたし、ただでさえ変な噂が流れている中でこれ以上無責任なことを言って迷惑をかけたくないと思った。



「お金をあげたりしてないなら私たちには何も言う権利はないから安心して。その白神君って子はよく知らないけど、彼が地味な格好をしろって言った訳じゃないのね?」

「……ええ」


 口ではそう答えたが、塔也の影響でラフな格好になったことにしたいと考えていたのは自分自身だったので恵理は自らの矛盾に自己嫌悪を覚えた。


「恵理ちゃんは誰にも迷惑かけてないけど、同じバスケ部の先輩として後輩が一人で悩んでるなら放っておけないと思ったの。私からはこれ以上聞かないから、相談したいことがあったらいつでも教えてね」


 金森はそう伝えるとそのままロッカールームを立ち去った。



「…………」


 後半の練習まであと3分になっても恵理は洗面台の前で黙り込んでいた。


 研究医養成コースをきっかけにようやく交流を持てた塔也には弁当を作ってくることを報酬に軽い気持ちで大学デビューに協力して貰うつもりだった。


 しかし学内では自分が塔也に貢いでいるというあらぬ噂を立てられ、彼は現在進行形で評価を落としている所だろう。



 思えば自分の生島化奈に対する態度も不適切だった。


 どういう経緯かは知らないが化奈は塔也に思いを寄せているらしく、一方で塔也からは恋愛対象として見られていない。


 その状況で塔也は自分と化奈とを比較するような失言をしてしまい、化奈はそのことで傷ついて講義室で泣いたこともあった。


 詳しい事実関係を知らなかったとはいえ、その状態の化奈に事情を聞こうとしたのは無神経だった。



 練習再開まであと1分になり、恵理はようやくロッカールームを出て体育館内に戻った。


 今週からは友達を名前で呼ぼうと思っていたが、今日はどうしてもそうする気になれなかった。

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