50 傷心と執心

(白神君、そろそろ来てくれへんかな……)



 2019年5月7日、火曜日。


 ゴールデンウィーク明け最初の授業日に生島いくしま化奈かなは教室で彼を待っていた。



 先々週の金曜日、意中の男子生徒である白神塔也が化奈には女性的魅力がないと話しているのを耳にしてしまった彼女は気が動転して塔也と話していたはやし庄一郎しょういちろうを平手打ちしてしまった。


 その話題を持ち出したのは林だったので懲らしめたこと自体は反省していないが、それでも化奈は塔也に乱暴な振る舞いを見せてしまったことを強く後悔していた。


 彼女にするなら大して仲良くもないはずの壬生川恵理の方がいいと言われたことは化奈の心をひどく傷つけたが、そのまま第二講堂のいつもの座席で泣いてしまったせいで塔也に釈明の場を与えられなかったのも手痛いミスだった。


 授業終了後も怒りと悲しみが収まらなかったのですぐに帰宅してしまったが、後で考えるとその日は連休前に塔也と話せる最後のチャンスであり帰宅後は自室のベッドに潜って自分を責めていた。



 とはいっても塔也が失礼なことを言ったのは事実で、メッセージアプリではその日のうちに謝ってくれたが連休明けには直接謝って欲しいとも思っていた。


 今日の午前中は生理学の講義が2コマあったが塔也は授業開始時にはまだ登校しておらず、途中の10分休憩にも化奈の座席まで来てくれることはなかった。


 昼休みに入ったら来てくれるだろうと考えて、化奈は授業の終了後もいつもの座席に残っていた。



「カナちゃん、そろそろお昼行かない?」


 一緒に昼食に行くことが多い陸上部仲間の芦原が後方の席から声をかけてきた。


「ごめん、5分だけ待って貰ってもええ?」

「うん、いいよー」


 芦原の返事が聞こえた所で待ち人は来た。



「あの、カナやん……」


 第二講堂の左ブロックに位置する座席からおそらく教室の後方を迂回して歩いてきたのは、白神塔也その人だった。


「お疲れ。何かあったん」


 今すぐ話をしたい気持ちを抑えて化奈はあえてそっけない態度で答えた。


「この前ひどいことを言っちゃったから、謝らせて欲しい。ちょっとそこのロビーに来てくれない?」

「……うん。分かった。芦原さん、5分で戻るから待っといて」


 そう言って席を立つと、塔也は少し安心した表情で教室前方の扉へと歩いていった。


 芦原は事情を察して頷き、教室に残っている学生たちも事態が動いたことを理解してざわつき始めた。



 塔也が言っていたロビーというのは予想通り第二講堂の前のロビーだった。


 医学生向けのパンフレットや文化部の部誌が設置されたテーブルの周囲には男子学生一人が寝転がれるサイズの長椅子が並べられており、塔也はテーブルの奥にある長椅子に化奈を案内した。


 肩掛けカバンを床に置いてから塔也は長椅子の端に座った。


 化奈も反対側に腰かけると、小さめのカバンを膝に置く。



「いきなりだけど、この前はカナやんと壬生川さんを比較するような話を聞かせてごめん。まさかカナやんが聞いてるなんて思わなかったし深く考えて答えてた訳でもないけど、人前で女友達を比較するのは無神経だった。本当にごめん」


 塔也はそう言って深く頭を下げた。


「別にそない気にしてへんって。変な話を切り出したんは林君やし、白神君がうちを大事に思ってくれてるのは知ってるで」


 穏やかに笑顔を浮かべて化奈は答えた。


「ありがとう。僕にとってはカナやんも壬生川さんも同じ友達だから、特にどっちが大事なんて思ってないよ。先月は本当にお世話になったし生化学教室の発展コース研修でもよろしく」


 塔也はそう言うと化奈に握手を求めてきた。


「……うん!」


 壬生川と同じぐらい大事という言葉に少し引っかかるものを覚えつつ、化奈は塔也の右手を握り返した。


 温かい体温を感じてからしばらくして手を離す。



「ところで、白神君は壬生川さんと仲いいん?」


 塔也と壬生川の関係がいつの間に進展していたのかは気になっていたので、化奈は単刀直入に聞いてみた。


「まともに知り合ったのは今月に入ってからだから、まだ仲がいいかは分からないかな。ちょうど今月は生理学教室の基本コース研修だから色々教えて貰ってはいるけど」

「なるほどな。うちも研究医生つながりで壬生川さんとは何度も話してるけど、美人やしゴージャスやしスタイルも抜群やんな」


 あえて外見だけに触れて化奈は同意を求めた。


「う、うん。まあ、そうだよね……」


 塔也が少し焦りながら答えたのを見て、化奈はこれぐらいの年齢の男は女性をカラダでしか見ていないのかも知れないと思った。



「あら、こんな所にいたの?」


 よく響く低めの声が聞こえてきて、塔也は見るからにギクッとした様子をした。


 声のした方を見るとそこに立っていたのは壬生川恵理だった。


 昼休みの開始直後とはいえ周囲には何組かの同級生がグループで長椅子に座っていて、偶然を装って野次馬をやっているのだろうと化奈は推測した。


「お疲れ、壬生川さん。白神君に何か用?」

「あっ、ちょっと……」


 何の意図もなく尋ねると塔也は冷や汗をかきながらうろたえた。


「今から食堂に行って一緒にお弁当を食べるの。生島さんの用事、まだかかるかしら?」

「お弁当?」


 事情が呑み込めず化奈は聞き返した。


 塔也は肩掛けカバンに手をかけ、いつでもこの場を立ち去れるようにしている。



「白神君はボーイフレンドだし、今月は学生研究にも一緒に取り組むから毎日お弁当を作ってくることにしたの。せっかくの縁は大事にしたいから」

「へー、そうなんや……」


 その時、化奈は疑問と困惑と怒りが混ざったような感情を抱いた。


「お昼休みも長くないから、そろそろ行っていい?」


 無邪気にそう問いかける壬生川に化奈はこくこくと頷いた。


「じゃあ失礼するね。あと、色々ごめん……」


 大変気まずそうな表情でそう言うと、塔也はバッグを肩に掛けて壬生川と並んでロビーを立ち去った。



 長椅子にポツンと一人残された化奈はそのまま硬直していた。


 まだ仲がいいかは分からない関係の壬生川に塔也は毎日お弁当を作って貰っていて、相手からはボーイフレンドと呼ばれている。


 ただ、塔也が嘘をついているようには思えないし、壬生川も友人である自分に当てつけをするような人間ではないはずだ。



「……カナちゃん、その、大丈夫?」


 いつの間にか教室から出てきていた芦原が心配そうに尋ねてきた。


「何なの白神君って。カナちゃんと仲直りしたいとか言ってまた恵理ちゃんとイチャイチャしてるなんて」


 近くで野次馬をしていたらしい同級生の山形が不満げに言った。


 

「何が問題なん? 白神君は学生研究の都合で壬生川さんと協力してるだけやし、実家まで来て貰ったうちの方が仲いいで」


 そう答えた瞬間、周囲の野次馬たちはざわめき始めた。


「大体白神君はただの友達なんやから、壬生川さんとイチャイチャしてたって勝手やん。皆も無責任に変な噂話せんでや。行こ、芦原さん」

「え、ええ……」


 無表情でカバンを手に取ると、化奈は芦原に声をかけてさっさとキャンパスの外に出た。


 商店街のレストランでパスタを食べながら、化奈は負けへんで、と密かに決意した。

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