38 気分はお嬢様

 2019年4月25日、木曜日。時刻は昼の12時20分頃。


 午前中の生理学の講義が12時15分ちょうどに終わり、僕は昼食を取りに図書館棟地下の学生食堂に来ていた。


 先日カナやんの個人的な依頼に付き合ったおかげで株式会社ホリデーパッチンの株主優待券を20000円分(1枚500円×40枚)も貰えて、最近は昼食を駅前のメガドンで済ませることも多かったのだが毎日たこ焼きや焼きそばでは流石に飽きてしまう。


 株主優待券には有効期限がないので、基本的には学食を利用しつつ週に1、2回ずつ使って半年ほど持たせようと計画していた。



 畿内医科大学医学部の本部キャンパスは学生が講義・実習を受ける講義実習棟、2階~4階に図書館、1階に総合事務局、地下に学生食堂を構える図書館棟、そして各教室の研究室がある研究棟の3つの建物を中心に構成されており、学生が図書館棟を訪れるのは学生食堂を利用する場合がほとんどだ。(学生食堂という名前だが、実際には大学および附属病院の関係者なら誰でも利用できる)


 図書館棟の2階と3階には大量の文献や医学雑誌が納められているが一般の書籍はほとんどなく、4階は古い医学雑誌の倉庫と5・6回生専用の自習スペースで占められているので低学年のうちに図書館を利用するのは学生研究員ぐらいだった。



 第二講堂から渡り廊下を経由して図書館棟2階に行き、そのまま階段で地下の学生食堂に入る。


 入り口では透明なショーケースに入った食品サンプルと説明カードで本日のメニューが示されており、その隣には新旧合わせて3台の食券自販機が設置されている。


 日替わり定食450円、日替わり丼400円、日替わりラーメン350円、各種のうどん・そば350円、丼&麺セット450円、丼や麺を大盛りにするにはプラス50円という価格設定はそれなりに安いが味はまずまずという表現に留まり、丼や麺を大盛りにしても大食いの学生には不満足な量にしかならない。


 部活の性質上よく食べるはやし庄一郎しょういちろう君(ラグビー部員)に至っては学食のコスパを許せないらしく、教務課前の投書箱に「料理のボリュームを増やすか100円ずつ値下げして欲しい」と投書したら「利益が出なくなるので無理です」と丁寧に回答されたらしい。(値下げが実現したら二人前頼むつもりだったと後で本人から聞いた)



 畿内医大の所在地である大阪府皆月市は総人口35万程度の中核市でキャンパス自体も阪急皆月市駅からほぼ直結、JR皆月駅から徒歩8分という大変便利な立地にあるので大学の周囲には多種多様な飲食店がある。


 1回800円~1000円ぐらいかかることを覚悟すれば昼食は学食で取るよりも近場の飲食店を利用した方がよほど充実しているので、学食を積極的に利用する学生は意外と少ない。


 よく利用するのは食事にこだわりがない一部の女子学生か病院実習で忙しい5・6回生か附属病院の多忙な部署で働いている医療関係者がほとんどであり、単純に昼食にかける金がないという理由で利用している僕のような学生は珍しかった。


 1回生の間はほとんど毎日林君や剣道部の友達と近場の飲食店に行っていたが剣道部を辞めた今では昼食のグループには参加しにくいし、僕が経済的に困っているという事情もそれとなく学年内で知られてきていた。


 友達はここ最近昼食にはあえて僕を誘わないか、たまに誘ってくれる時は1回600円程度で済む店を選んでくれていてさりげない配慮には感謝が尽きなかった。



 調理場に立ち並ぶおばさんのいらっしゃいませー! という丁寧で活力のある挨拶に会釈を返しつつ、僕は調理場に面したカウンターに500円硬貨で購入した食券をトレーごと提示した。


「定食お願いします。ご飯は大盛りで」

「はいよ! いつもありがとうね。定食ひとつ!」


 既に顔なじみになりつつあるおばさんは笑顔で返事してから奥に控える調理師のおじさんに大声で指示を出した。


 定食の場合おかずと小鉢は調理場の奥にいるおじさんが配膳し、ご飯とみそ汁はおばさんがその場でよそってくれるのでおばさんに一言お願いすればご飯を無料で大盛りにして貰える。



 いつも通り配膳が進んでいる間にお箸やお茶を取りに行こうとすると、僕が置いたトレーの横に別の人がガチャンとトレーを置く音がした。


 物音に軽く驚いていると、僕はいきなり、


「失礼。ちょっとよろしいかしら?」


 と声をかけられた。



「え、ああ、どうぞ……?」


 戸惑いながら振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。


「こんにちは。同級生の壬生川にゅうがわです」

「ああ、壬生川さんか。こちらこそこんにちは」


 分かりやすく整った顔に医学生にあるまじき丁寧なメイクを施し抜群のスタイルに医学生にあるまじきおしゃれな衣服をまとい医学生にあるまじき高級そうなバッグを携えた女の子は医学部2回生の壬生川にゅうがわ恵理えりさんという。


 実家は大阪府内らしいが出身高校は京都府内の女子校で、本人もいかにもゴージャスなお嬢様。僕と同じく二浪だが男子学生からの人気は極めて高く、これまで何人もの同級生男子からアプローチされたが結局は誰にもなびかず終わっていたという。



「今日はあなた、白神君とご飯をご一緒したいの。付き合ってくれる?」

「ふぇっ?」


 思わず変な声が出た。


 数々の男子学生からのアプローチをお断りし、今では女子バスケットボール部の女友達としかつるまないというゴージャス美女がなぜ僕のような凡人に話しかけてくるのか。


「はい配膳終わったよ! お二人でおいしく食べといで!!」


 いつの間にか僕の分も壬生川さんの分も配膳が終わっており、狭いカウンターを延々占拠するなという注意も込めておばさんが威勢よく声をかけてきた。


「あ、すみません。じゃあ行きますか……」

「ええ、よろしくお願いします」


 壬生川さんはまぶしい笑みを浮かべつつそう言うと、定食で一杯になったトレーを持ってお箸やお茶のサーバーが置かれている台へと向かった。


 僕も慌てて追従し、そのままお箸とお茶を取って二人で広い食堂の一角にあるテーブルに向かい合って座った。



「突然のお誘いなのに引き受けてくれてありがとう。白神君とは早いうちにお話しておきたかったの」

「は、はあ……」


 壬生川さんはにこにこ笑ってそう言ったが向かい合って座る僕は気が気でない。


 あの壬生川さんが男を誘って食事をしているということで学食にいた何人かの同級生と上級生(女子が多い)は既に興味深々になっており、食事しつつ僕らの様子をうかがったりひどい時はわざわざ椅子をこちらに向けたりしている。


 食堂内の雰囲気が一変し、入学したばかりで上級生の人間関係はまったく知らない1回生と学年が離れた5・6回生は意味が分からずきょとんとしている。


 男友達の多いカナやんはともかく高嶺の花の剖良先輩とお近づきになってしまったせいでただでさえ変な噂を立てられがちなのに、同級生の壬生川さんとの関係まで疑われ始めたらと絶望的な気分になった。



「食べながら話すのもお行儀がよくないし、とりあえず頂きましょう」


 壬生川さんはそう言うと手を合わせてさっさと定食を食べ始めたので、僕もカクカク頷いてそれに従った。


 見た目は当然ゴージャスな美女だが壬生川さんはご飯の食べ方も上品で、白身魚のムニエルをこんなに綺麗に食べる人は珍しいと思った。


 まだ春先なので夏服ではないが壬生川さんの今日の服装はちょうど胸元の守りが薄めになっており、素晴らしいスタイルと美肌がどうしても目に入って僕はじろじろ見てしまわないよう自分をいましめた。



 味が頭に入らない状況で定食を食べ終わると、壬生川さんもちょうどお味噌汁を飲み干した所だった。


 お互いのトレーの上にある食器が全て空になったことを確認してか壬生川さんは再び話し始めた。


「お疲れ様。もう誰かから聞いてるかも知れないけど、私は来月から生理学教室で白神君の指導を担当するの」

「ああ、そういえば生理学教室の研究医生なんだってね。前に聞いてたけど確かに来月からの担当者になるね」


 頭の中でリンクさせられていなかったが来月から生理学教室の基本コース研修が始まり壬生川さんは生理学教室所属の研究医養成コース生なので、僕の指導を担当してくれることになっていてもおかしくはない。


「生理学教室には他にも研究医生がいるけどちょうど5回生と6回生で多忙だから私が頼まれちゃって。といっても私は生島さんほど自分の研究に取り組めてないから、研究を教えるというより一緒に学ぶ場面が多くなりそう。色々大変だけどよろしくね」

「ありがとう。僕もまだまだ素人だけど、剖良先輩とカナやんに一通り指導して貰ったからなるべく足を引っ張らないように頑張ります」


 そう返事すると壬生川さんは例によって眩しい笑顔を浮かべて、そのまま椅子を軽く引いて立ち上がった。


「今日は軽く挨拶したかっただけだからこの辺りで失礼します。後で連絡先交換しておいてくれる?」

「うん。また来月から一緒に頑張ろう」


 壬生川さんはぺこりと頭を下げるとそのままバッグを肘にかけ、トレーを持ち上げて去っていった。


 おそらく食器返却口に寄ってから講堂に戻るのだろう。


 メッセージアプリの連絡先交換はお互いにスマホを出して行うのが一般的だが、同級生の場合は大抵メッセージアプリの同じグループに所属しているのでグループのメンバーリストを通じて勝手に連絡先を交換できる。


 便利な反面、人間関係がこじれた時には厄介になりそうな仕組みだった。



 突然の事態に困惑したものの、学年内でも飛び抜けた美女の壬生川さんとじっくり話ができて僕は何とも言えない多幸感に包まれていた。


 ただ、それだけで終わらないのが人生というもので。


「し~ら~か~み~く~ん~~~」

「げっ、山形さん」


 食堂内のどこかから監視していたらしいサッカー部マネージャーの同級生である山形さんが邪悪な笑みを浮かべて近寄ってきた。


「何、何なの? カナちゃんにアプローチしたと思ったら今度は恵理ちゃんとニコニコお食事? 君ってそんなにプレイボーイだったの? お姉さん幻滅しちゃうんだけど」

「いやいやいや、カナやんにアプローチしたことは一度もないし壬生川さんとは学生研究の関係で話してただけだしプレイボーイとか意味不明ですって。いや頼みますから離れてくださいお願いします」


 僕に詰め寄ってドッジボールのように質問をぶつける山形さんを退散させられた時には、既に午後の講義の開始5分前だった。

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