37 合法な感情

 2019年4月14日、日曜日。


 大学で彼氏ができたことにすれば珠樹も流石に諦めてくれるだろうと考えたうちは、協力を申し出てくれた同級生の白神君を親戚一同の食事会に連れてきていた。



 珠樹は見るからに白神君に警戒した様子だったけどしばらくすると打ち解けたようで、食事会の最中に二人で盛り上がっていたのにはうちも気づいていた。


 親戚同士の内輪の話が続いて暇になったからか白神君はちょっと公園で遊んでくると言って珠樹を連れ出し、そのまま1時間ほど帰ってこなかった。



 食事会もそろそろ終わりに近づき二人を呼び戻そうということになったので、うちは自分で迎えに行くことにした。


 この近くの公園というと一か所しかないし、万が一見つからなければメッセージアプリの通話機能を使えばいい。



 親戚一同が会話を続けている中で一人席を立ち、うちはレストランを出て公園へと走った。


 珠樹に告白された公園とは別の場所だけど何となくあの時のことを思い出してしまって、うちは急いでいる訳でもないのに歩道を走っていた。



 横断歩道を渡って公園の前の道路までたどり着いたうちは、周囲の確認を怠っていたからか公園から出てくる人影に気づかなかった。


 ドンッ、という感じの音と衝撃がしてうちは誰かとぶつかったことを理解した。



「あいたた……すいません、大丈夫ですか?」

 

 目の前に倒れていたのは50代から60代ぐらいに見えるおじさんで、昼間から公園でアルコールを飲んでいたのか顔面は真っ赤に火照っていた。


「何やお前。人がせっかく飲んどった酒がパアやないか。どないしてくれるねん!」


 怒声を上げながら立ち上がったおじさんは右手でコンクリートの地面を指さした。


 見るとお酒が入っていたらしい小瓶が2本地面に転がり、割れて中身が道路にこぼれていた。


「ご、ごめんなさい。お酒は弁償します」

「弁償も何もあるかい! 俺はこれからバスで競艇見に行くねんで。せっかくの楽しい気分が台無しやないか。ほんまにどないしてくれるんや!!」


 おじさんの話はよく考えると筋が通っておらず、厄介な酔っ払いに絡まれてしまったと思った。


 それからおじさんは数分ほど怒鳴り続けて、うちは何も反論できずにひたすらその剣幕に脅えていた。



「大体なあ、近頃の若いもんは俺ら老人を見下しとるんや。酔っ払いが迷惑やのタバコが迷惑やの運転免許を取り上げろやの言うけどな、俺らは上司からボロカスにののしられもって死ぬ思いで働いてきたんや。何でもハラスメント言いよる連中に俺らの苦労なんて分かるか!!」

「は、はあ……」


 いつの間にか相手への文句が若者全般への批判になったおじさんに、うちはどうすればこの場から逃げられるのか困惑していた。


「お前真面目に聞いとんか! そういう態度やから今日もうぐっ」


 何度目か分からない怒鳴り声を上げたおじさんは突然絶句するとそのまま頭から道路に倒れ込んだ。


 何が起こったのか分からず驚いていたうちはおじさんの後方に立っている人影に気付いた。



「白神、君……?」


 そこには白神君が右手に太めの木の枝を持って立っていて、うちは彼が何かしらの一撃でおじさんを昏倒させてくれたのだと理解した。


「カナやん、今は喋ってる場合じゃない。早く!」


 白神君はそう言うと左手でうちの右手を強く掴んだ。


「えっ?」


 一瞬呆然としたうちに、白神君は、


「逃げるんだよ! 今なら顔を覚えられてないから!!」


 と叫んでそのまま公園から離れる方向に走り出した。



 白神君の左手をぎゅっと掴んで、うちはそのまま公園が見えなくなるまでひたすら走った。


 二人で走って、走って、無我夢中に逃げ続けた。




 5分ほど走ると、うちらはいつの間にかホリデーパッチンの本社ビルが見える所まで来ていた。


「はあ、はぁ……あれって、カナやんの実家のビルだよね?」


 これぐらいの走行はうちにとってはウォーミングアップ程度だけど白神君にはきつかったらしく、息を切らしながらそう尋ねてきた。


「せやで。ここまで来たらもう大丈夫やと思う」

「良かった。後はこの木の枝を処分したいんだけど捨てられそうな場所あるかな?」


 よく見ると白神君は犯行現場(?)からここまで木の枝を持ってきていて、そこまで考えていたのかと驚いた。


「ほな、あそこの曲がり角に公園あるからそこで捨てたらどう?」


 うちが指定した公園はちょうど珠樹から告白された場所だった。



「ありがとう。じゃあ、ちょっと付き合ってね」

「うん。……あ、白神君」


 何事もなく公園へと歩こうとする白神君を、うちはあることに気づいて呼び止めた。


「どうしたの?」

「あのな……手、もう離してもええ?」


 一緒に逃げていた最中からうちらは強く手を握ったままだった。


「あっ、ごめん。気づかなかった」


 白神君は苦笑いしてぱっと手を離した。


 あっさりと離れた手に、うちは何故か名残なごり惜しさを感じてしまった。



 公園に入ると白神君は木の枝を足で踏んで何本かに折り、いくつかの大きな広葉樹の下に分けて断片を捨てた。


 そうして凶器の始末が終わるとうちも今になって疲れを感じて、しばらく公園のベンチで休憩することにした。


「お疲れ。珠樹君にはスマホで連絡したからもうすぐ来てくれると思う」


 自販機で買ってきたらしいスポーツドリンクのペットボトルを2本持って白神君がベンチまで歩いてきた。


「これどうぞ。走って疲れたでしょ」

「ありがと。後でお金渡すわ」

「いや、このぐらいはいいよ。後でお礼貰うし」

「うーん、それでかめへんかな?」


 白神君は頷くとペットボトルの蓋を開けてごくごくと中身を飲んだ。


 勢いよくスポーツドリンクを飲む白神君の喉仏が動くのを眺めて、うちはしばらくぼーっとしていた。


「あれ、飲まないの?」

「あ、ごめん。うちも喉カラカラやわ」


 そう言ってペットボトルの蓋を開け、うちもゆっくりとスポーツドリンクを飲んだ。



「……今更やけど、さっきは本当にありがとな。うちの不注意でぶつかってもうたねんけど酔っ払いのおじさんに凄まれて怖かったわ」


 よく考えると一言もお礼を言っていないことに気づいて、隣に座っている白神君に話しかけた。


「大事な女友達が危ない人に絡まれてたらそりゃ助けるよ。見るからに話が通じそうになかったからちょっと荒いやり方になって申し訳なかったけど」

「せやね。……友達、やもんな」


 顔を見て感謝を伝えるべきなのに、うちは白神君と顔を合わせられなかった。


「助けてくれたのは珠樹君もだよ。彼はカナやんが絡まれてる時からずっとその様子をスマホで録画し続けて、僕が酔っ払いの腰を一突きして逃げるまで公園に残ってくれた。万が一あの人が起きて警察に行っても、酔っぱらってカナやんに絡んでたことは証拠として残ってる」

「そうなん? 珠樹にもお礼言わなあかんな」


 白神君が指示したのか珠樹が考えたのかは分からないけど、うちは2人のとっさの行動に助けられたのだと理解した。



「カナちゃん! 白神さん!」


 それから数分もしないうちに、うちらを見つけた珠樹が公園の入り口から駆け寄ってきた。


「お疲れ、珠樹君。ご覧の通り化奈さんは無事だよ」

「良かった。白神さんが木の枝一本であのおじさんを倒した時は流石はカナちゃんの彼氏だと思いました。ありがとうございます!」


 珠樹はほっと安心した顔でそう言うと白神君に深々と頭を下げた。


「白神君から聞いたで。うちが酔っ払いに絡まれてる時からずっとスマホで撮影しててくれたんやろ? 珠樹のおかげでうちらは安心やで。ありがとな」

「いや、でもそれは白神さんの指示に従っただけで……」


 恐縮して答えた珠樹に、


「喧嘩慣れしてない珠樹が白神君にいきなり指示されてちゃんと行動できたんやから十分偉い。うちを助けてくれたんは自分ら2人やで」


 強い調子でそう伝えた。



「ありがとう、カナちゃん……」


 珠樹はぽつりと言って、しばらく黙り込んだ。



 それから珠樹は白神君に後で映像データを送信する旨を伝えると、かしこまった様子で、


「俺はカナちゃんが好きだったけど、今日の白神さんの姿を見てカナちゃんを任せられる男は他にいないと思いました。今後とも大事にしてあげてください」


 と言って白神君に改めて頭を下げた。


 これで一件落着と思った矢先、



「珠樹君!」


 白神君が突然強い調子でそう言った。



「は、はい。何ですか」


 驚く珠樹に対して白神君は一息に、



「これは本当は言っちゃいけないんだけど、僕は化奈さん、いやカナやんとはただの友達です。今日は彼氏のふりをしてただけで僕が知る限りカナやんに彼氏はいない。というか君も大体気づいてたでしょ?」


 と言った。



「……はい。彼氏なのにカナちゃんのことを全然知らないなって思ってました」


 珠樹はそう答えて、そのまま沈黙した。



「これから畿内医大を目指すのもカナやんにアプローチするのも君の自由だし、その努力を僕らが嘘やごまかしで邪魔しちゃいけないと思う。ただ、君はもう高校生なんだから自分の行動の責任は自分で取らないといけない。何年間も浪人したり結局カナやんに振られたりするリスクは考えておくようにね」


 白神君がそう告げると珠樹はこくこくと頷いた。


 他の親族は既に本社ビルに戻っているらしく、珠樹は先に戻って無事を伝えておくと言って公園を立ち去った。



「何というか、色々とごめん。珠樹君が本気で頑張ろうとしてるのを知ってどうしてもカナやんとの約束は守れなかった」


 ベンチの上でうちに土下座しつつ、白神君は謝罪の意思を伝えてきた。


「白神君なりに珠樹のこともうちのことも考えて言うてくれたんやろうし、これ以上無理は言えへんわ。今日は来てくれてありがとな」


 そう言ってからうちは白神君の肩を叩き、顔を上げるように促した。


「忙しいのに協力してくれた訳やからお礼もちゃんとあげるで。次に会った時にまとめて渡すから楽しみにしといてな」

「えっ、本当にいいの?」

「うちが持ってても使わへんし。普段から実家で食べさせてもろてるからわざわざお店には行かへんの」


 驚く白神君に、うちは笑顔でそう伝えた。


「ありがとう。今日は色々ダメダメだったけど本当に助かります!」


 白神君はそう言うとまた土下座しようとしたので、うちは慌てて制止した。




 酔っ払いのおじさんとの一件はうちらだけの秘密にして、その日は珠樹と一緒に白神君を最寄り駅まで見送ってから解散した。


 珠樹からはその日の夜にメッセージアプリで連絡があり、今の自分は到底医学部を目指せる成績ではないから白神君に教えて貰った受験技法をもとに頑張って勉強して、目指す道は学力が身についてから改めて考えるとのことだった。


 そして白神君がうちの彼氏でないことは理解した上で、「カナちゃんには白神さんのような素敵な人と結ばれて欲しい」と伝えてくれた。


 今後もいとこ同士としてずっと仲良くしようなと返信してから、うちはスマホを充電台に戻した。



 家族が寝入り始める23時過ぎの自宅。


 うちはベッドに寝転がると枕元のタブレット端末を手に取った。


 何気なくメッセージアプリを起動すると、うちは自然と白神君とのトークルームを開いていた。



 明日の月曜日は珍しく午前の授業がないので昼休みに図書館前のロビーで待ち合わせて、そこでホリデーパッチンの株主優待券を渡すと伝えていた。


 白神君からはメッセージと数種類のスタンプで感謝を伝えられ、うちは持っている中で一番かわいいスタンプで返信しておいた。



 白神君に対して、うちの中に昨日までとは異なる感情が芽生えていると分かった。


 部屋の照明を消して薄い毛布にくるまったまま、うちはこれまで味わったことのない心地よさに浸っていた。

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