26 気分は新歓チラシ

 それから3日後。月曜日の朝の講義室で、僕は林君がいつもの座席に突っ伏しているのを見かけた。


 林君はラグビー部の朝練の関係で早く来ているのも珍しくないが、ハードな練習の後とはいえここまで疲弊している姿は見たことがなかった。



「おはよう、林君」

「……ん、ああ、白神か。もうすぐ講義開始……でもなさそうだな」


 林君は僕の呼びかけにすぐ応答したが時間経過を感覚的に把握できないぐらいには疲れているらしい。


「やたら疲れてるけど今日は朝練がきつかったの?」


 無難な範囲で理由を聞いてみる。


「いや、今日は朝練はなかったけど部活の用事で朝から図書館のパソコンを使ってた。さっきこれを印刷して、先輩に写真で送ったんだけど……」


 林君は枕元(?)に裏向きで置いてあったA4サイズの用紙を手に取ると僕に見せてくれた。


 そこには「2019年度 ラグビー部新歓チラシ」と大きなフォントで印字されていて、タイトルの下には日々の練習風景のショットや集合写真と共にラグビー部の特徴や活動内容が紹介されていた。



「これ、2回生の林君が作ってるの? しかもこの時期に?」


 一般に新歓活動で中心的な役割を果たすのは幹部学年である3回生または4回生だし、新歓チラシはどのクラブも3月末までには作り終えているのが一般的なので何かイレギュラーな事情があると察した。


「元々4回生の先輩が作ってたんだけど、作りかけのチラシと歴代の新歓資料のデータが入ったハードディスクが寿命で壊れたらしくて。ちょうど短期留学に行くタイミングと重なったせいで作り直すこともできなくて、今日までに俺が作るよう言われてたんだ」

「ええー、他の先輩は何もしてくれないの?」

「先輩方はパソコン入力すら苦手な人がほとんどで、タッチタイピングができてWordが使えるのが俺しかいなくて……」

「ああ……」


 世間にはいまいち認識されていないが、2019年現在の日本ではスマホが爆発的に普及したせいでパソコンをまともに使えない学生が非常に多い。現時点では大学入試の科目に「情報」は含まれていないのでその状況は大学でも同様である。


 WordやExcelを使ったことがないのは当たり前で、タッチタイピング(昔の言い方ではブラインドタッチ)ができる学生は希少な存在として扱われる。


 21世紀は情報化の時代と叫ばれる一方で日本の大学生の多くはパソコンをまともに使えないという事実が無視されているのはナンセンスだと思う。



「林君が担当することになったのは分かったけど、何か問題があるの?」

「今日の朝までにチラシは作れたんだけど、先輩に写真で送ったらこれまでのと比べて宣伝文句に魅力がないって言われたんだ。でも俺には何が駄目なのかさっぱり分からなくて」

「そうなんだ。ちょっと見てみていい?」


 林君は頷いて僕にチラシを渡してくれた。


 チラシに書かれていたのは以下のような文言だった。




・本学ラグビー部は日本屈指の強豪。西医体優勝経験もあります!


・試験前は適宜休みを取ることができ、部活を頑張りながら勉強にも真面目に取り組めます!


・練習は毎週火曜・木曜・土曜に行っています。月に2回の練習試合は日頃の努力を見せつける絶好のチャンス。チームワークで勝利を目指しましょう!




「この宣伝文句は林君が考えたの?」

「うん。先輩方からは嘘を書くのは厳禁だけどなるべく良い印象を与える内容にしてくれと頼まれてる」

「なるほど……」


 以前の僕なら何がおかしいのか分からなかっただろうが、成宮教授とカナやんの教えを受けた今の僕には林君の作ったチラシの問題点がすぐに分かった。


「僕はラグビーには素人だけど、この宣伝文句だと確かに新入生は集まりにくいんじゃないかと思う」

「白神もそう思うか? 良かったらどこを直せばいいか教えてくれないか」


 林君に頼まれ、僕は頷いて了解の意思を伝えた。



「このチラシは確かにラグビー部の魅力をアピールしてるけど全体的に主観的な記述が多いと思う。日本屈指の強豪と書くよりも最近の実績をそのまま載せた方がいいし、試験前に休める期間も具体的に書くべきだと思う。練習時間も書かれてなくてこのチラシだけだとやたら拘束時間が長い運動部って印象になってる」

「そうか。同じことをアピールするのでも、書き方によって全然違うんだな」


 林君は僕のアドバイスを受けて早速チラシに改善案を書き込み始めた。


「クラブの魅力っていうのは結局は先輩方に会ってみないと分からないから、新入生が新歓チラシに求めてるのは具体的な情報だと思うよ。後で話が違うとか思われたら困るし、チラシでは活動内容を正確に伝えるのをメインにしてラグビー部の魅力は新歓飲み会とかで直接伝えるのが一番じゃない?」


 そこまで伝えると林君はこくこくと頷いた。


「ありがとう。白神のアドバイスはもっともだと思うから今日中にチラシを作り直して先輩に送ってみる。本当に助かった」


 どういたしましてと返事して僕は林君と握手した。


 事実と意見とを区別する能力が役立つのは研究に限ったことではなく、こうした日常生活での情報発信にも有用なスキルなのだろう。





 その翌日。修正したチラシが先輩に受理されたと林君からメッセージアプリで伝えられた僕は、登校して第二講堂に入る前に第一講堂前のロビーにある新歓チラシ置き場を見に来ていた。


 あれから急いで印刷したのかラグビー部のスタンドには林君により上手く修正された新歓チラシが大量に並んでいた。


 その他にも剣道部、弓道部、美術部、軽音部といった様々なクラブのスタンドが所狭しと並んでいて、僕も何か金のかからない文化部に入ってみようかと少し思った。



「あれっ白神君。2回生がこんな所で何やってるの?」

「ヤミ子先輩!」


 背後から僕に話しかけてきたのはここしばらく会っていなかった病理学教室の山井やまい理子りこ先輩、通称ヤミ子先輩だった。



「お疲れ様です。色々あって今は帰宅部なんですけどお金のかからない文化部があったら入ってみようかなと思って」


 そう答えるとヤミ子先輩は目をキラキラさせて、



「そうなの? 私は写真部なんだけど、人手不足だから新入部員は2回生でも全然歓迎するよ。カメラは個人で買わなくてもクラブのを使ってくれていいし」


 と一息に言った。



「今すぐ決められないと思うから、良かったらこのチラシを読んでみて!」


 ヤミ子先輩はそう言うと持っていたチラシの束から1枚を渡してくれた。


 そのまま残ったチラシをスタンドに補充する姿を見てヤミ子先輩も林君のように新歓活動を担当しているのだと分かった。



「ありがとうございます。えーと……」


 ざっと表面に目を通すと、そこには見やすく工夫されたフォントで写真部の魅力がアピールされていた。


 流石はヤミ子先輩と言うべきかその内容は事実と意見が明確に区別されていて、これなら興味を持ってくれる新入生も多いだろうと思った。



「いい感じのチラシですね。流石は先輩です」

「ありがとう。でもこのチラシの見所は裏面だよ。お金はかかったけどカラー印刷にして、私たちが実際に撮った美しい写真を掲載してるから」


 ヤミ子先輩がにっこりと微笑んでそう言ったので僕はわくわくしながらチラシを裏返した。


 そこには……




 ~写真部次期主将・山井理子の顕微鏡写真コレクション~


・胃の腸上皮化生(400倍) さかずき細胞が綺麗に写った像を探すのは楽しいです。


・肺の角化扁平上皮癌(200倍) 癌真珠はいつ見ても美しいですね!


・腎臓の糸球体(200倍) 教科書に載せられるほど整った組織像に感激です!




「どう? 私のコレクションの中でも凄く綺麗な画像を特別公開したんだけど」

「……は、ははは、素晴らしいんじゃないでしょうか……」


 人間って本当に呆れた時は絶句できないんだなあと感じた。


 ヤミ子先輩には申し訳ないがこれはもう事実とか意見とかいう以前の問題だと思う。

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