15 気分は英語論文

 そして来たる3月15日、金曜日。


 例によって集合時刻の5分ほど前に病理学教室の会議室にやって来た僕は既に中に人がいるのを確認し、ノックせずにドアを開いた。



 病理学教室を訪れたのは入学後初だしそもそも研究棟の5階で降りたこともなかったが、医療機器などのセールスに訪れるMR(医薬情報担当者)さんのための案内図が掲示されていたので難なく会議室までたどり着けた。



「あら、いらっしゃーい」


 開いたドアの向こうには予想通りヤミ子先輩がいて、タブレット端末を開いて何かを見ていた。


 その隣に座っているポニーテールの女の子はもはや言うまでもなく、



「……こんにちは」


 解川先輩だった。



「お疲れ様です。解川先輩も参加されてたんですね」


 見知った顔がいて安心しつつそう言うと、解川先輩は黙って目を逸らしてしまった。



「さっちゃんはずっと前から来てくれてるの。普段は他にも3人ぐらい来るんだけど、今日は都合が悪くて私たちだけ。面子が変わり映えしなくてごめんね」

「いえいえ、また他の人たちも紹介してください」


 ヤミ子先輩が例によってスマートな対応を取る中、解川先輩は軽く会釈してから黙ったままだ。


 既に大体察せられるが解川先輩はヤミ子先輩の前だと僕への当たりが強くなるらしい。



「ヤミ子先輩はタブレットで英文を読むんですか?」


 僕は事前にメッセージアプリからPDFファイルで送信して貰った症例報告をA4の用紙に印刷して持ってきていて解川先輩も同様だったが、ヤミ子先輩は見たところ紙媒体の資料を持ってきていなかった。



「読むといえばそうだけど、正確にはタブレット上のPDFにそのまま書き込めるの。この専用ペンシルは高いけど便利だよ」


 ヤミ子先輩は僕にタブレット端末の画面を示し、適当に開いたページに落書きをしてみせてくれた。



「へえ、便利ですね。普段の板書とかもこれで取ってるんですか?」

「そうそう。慣れてみるとタブレットとペンシルだけで大体済ませられるし、私に絵心があればイラストも描いてみたいぐらい。こんな感じで」


 ヤミ子先輩はぺらぺらと喋りつつ空白のページに相合傘を書いて、



 ヤミ子 │ 白神君


 と名前を記入した。



「はい?」


 あまりにも軽いノリに対応を決めかねていると黙っていた解川先輩が素早くヤミ子先輩のペンシルを奪い取り、目にもとまらぬ早業はやわざで落書きを消した。


 動作が速すぎて、ペンシルで書き込んだものをペンシルで消す仕組みも分からなかった。



「そろそろ真面目に予習しない……?」


 低い声で言った解川先輩の瞳にはメラメラと炎が燃えていたので僕は高速で椅子に着地し、ヤミ子先輩もわなわなと手を震わせる親友を冗談だってー、となだめた。



 僕がヤミ子先輩と会うのはこれが3回目なのでそんなにインティメットな関係になっているはずがないのだが、解川先輩を怒らせてもいいことがないので素直に恐縮しておいた。


 ちなみにintimateという英単語を単に「親密」という意味で使うのはネイティブ的にはよろしくないらしい。



 3人で題材となる英文に目を通していると、ドアが勢いよく開く音がした。



「Hey, boys and girls!! Are you ready?」


 病理学教室には外国人の先生でもいるのかと思って振り向くと、そこにはさかやきを剃って後頭部に長めの髪を下ろした壮年の巨漢がいた。


 この表現では分かりにくいが、要するに非常にガタイのいい50代ぐらいの中年男性で江戸時代の侍のちょんまげを解いたバージョンのような髪型をしていたということだ。



「教授、大して上手くもないんですから日本語で喋ってくださいよー」


 ヤミ子先輩の言葉でこの人は病理学教室の紀伊教授だと分かった。



「おう、申し訳ない。野暮用で少し遅れたけど今から抄読会を始めちゃうぜ。よろしくな、えーと……」

「新2回生の白神君です」


 僕の顔を見て考えていた紀伊教授に解川先輩が端的に情報を伝えた。



「ああそうだそうだ。今年からいきなり研究医養成コースとか言われて大変だろうけど、頼れる美人の先輩に甘えて頑張っちゃえよ?」

「私は甘えさせてないです」

「おっと、その意気や良し!」


 紀伊教授のノリに付いていけそうにないのはともかく、解川先輩は先ほどの件にまだ怒っているらしい。


 ヤミ子先輩の前で気まずくなると困るので今日は早めに終わっても自分だけ先に抜けることにしようと思った。




 そんな訳で教授1名と学生3名による抄読会は始まったのだが……



「よし、じゃあヤミ子」



 "A week later, she noted an erythematous rash affecting her trunk, legs, feet, and hands."



「はい。一週間後、患者は紅斑こうはん性の皮疹ひしんを体幹、下肢および足、手に認めました」

「その通り。エリテマが紅斑だというのは言うまでもないよな。次、さっちゃん」



 "One day after that, mild, diffuse abdominal discomfort developed, along with anorexia and multiple episodes of nonbloody diarrhea."



「その翌日、患者には軽度かつびまん性の腹部不快感が生じ、食欲不振と下血げけつのない下痢の頻発も伴っていました」

「素晴らしい。ディフューズはびまん性という意味で、こういう症例報告では定番の用語だ。アノレキシアも有名な例だが、最初に接頭辞のaとかanが付いてる単語は否定の意味合いを持つことが多い。覚えとくと便利だぞ」



 僕にはレベルが高すぎる。



「ようやくミスター白神の出番だな。このまま行の最後まで読んでくれ」



 "During the next 4 days, she had positional dizziness with syncope. Two weeks before admission to this hospital, the patient sought medical attention at another hospital."



「えーと……その次の4日間、患者は位置の……? めまいが……シンコープで見られました。この病院に来る2週間前、患者は……医療的な注意を、他の病院で求め……」



 全然駄目だった。



 僕の番が回ってくる度に減速しつつ抄読会は進み、終了した時には1時間も経っていなかったが僕にはとてつもなく長い時間に感じられた。


 ちなみにさっきの英文は「それから4日間、患者は失神を伴う体位性のめまいを経験しました。この病院を訪れる2週間前、患者は他の病院でも診療を受けていました」とヤミ子先輩が訳してくれた。




「いやー、中々見所のあるヤングマンだ。1回生でも英語は習うっていってもこれぐらい分かってれば上達が早いぞ」


 会議室の机に倒れ込みそうになっている僕の向かい側で、紀伊教授はガハハと笑いながら僕の英語力を褒めていた。



「お褒めに預かり光栄ですけど、流石に無理があるような……」


 辛うじてそう答えると、ヤミ子先輩も右手を振りつつ、



「教授は思ってもないことを言って相手をフォローしてくれるような人じゃないから、これは喜んでいいよ。私も他の先輩も最初の頃はもっとダメダメで、褒められたことしかないのはさっちゃんだけだし」


 と教えてくれた。



 僕は他人の英語力を評価できるほどセンスがある訳ではないが、発音や解釈を聞く限り確かにここにいる4人では解川先輩が最も流暢に英語を扱えるように思われた。



「さっちゃんの英語力には目を見張るものがあるからな。ほとんど海外に行ったことがないヤミ子とかヤッ君はともかく、マレーなんてシーズンに1回は海外旅行するくせに英語力はポンコツだぞ」


 ヤッ君やマレーというのはこの場に来ていない参加者らしく、両名とも研究医養成コースに所属しているという。


 本名までは詳しく聞いていないがヤミ子先輩と解川先輩の例を見るにおそらく名字か名前をもじったあだ名なのだろう。



「皆さんそう仰いますけど、僕はいまいち自信ないです。解川先輩はどう思います?」


 今日は珍しく解川先輩とあまり話せていない(というか話しにくい状況である)ため、僕はあえて水を向けてみた。



 先輩はハッとした感じでわずかに硬直したがすぐに僕の方を向いて、



「……白神君は、才能あると思う」


 ぽつりと言った。



「来た来た、さっちゃんのお墨付きだ! ありがたみを噛みしめて次回からもぜひ来てくれよな!」


 紀伊教授は上機嫌でそう言うと僕らに次回用いる症例報告をA4用紙に印刷して渡してくれた。


 ヤミ子先輩はPDFファイルを直接用いるため、後でUSBメモリに保存して受け取るという。




 術中迅速診断のシフトが入っているからと言って紀伊教授はそれからすぐに会議室を出ていった。


 僕も元々の予定通りにすぐ席を立って、



「時間も丁度いいですし僕もそろそろバイトの面接に行ってきます」


 と伝えた。


 解川先輩とは最後にまた打ち解けられたと思うが、あまりヤミ子先輩としつこく話さない方がいいだろうと僕なりに配慮していた。



「そういえば言ってたね。私もこの後さっちゃんと二人で行く所あるからここでお別れかな」


 ヤミ子先輩もそう言ってあっさり済ませて、解川先輩は無言でこくこくと頷いていた。空気を読んで早く立ち去りなさいということだろう。



「では今回は誘ってくださってありがとうございました。次回もぜひ参加したいのでまた日程が決まったら教えてください」


 ヤミ子先輩に向けてお辞儀しつつ言ってから、僕は解川先輩の方を見て、



「あと来週も引き続きよろしくお願いします。また機会があれば、色々お話を聞かせてください!」


 と言って右手の親指でサムズアップをした。



 言外に込めた激励の意図をんでくれたのか解川先輩も無言のまま右手でサムズアップを返してくれて、僕は笑顔を浮かべて会議室を後にした。


 背中の方からヤミ子先輩がわくわくした様子で何かを言うのが聞こえたが、僕は一切意に介さず歩いていった。



 まだ知り合ったばかりで解川先輩の恋路を応援していい立場なのかは分からないが、少なくとも僕は先輩の味方でありたいと思った。

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