14 気分は在宅バイト

 2019年3月12日、火曜日。時刻は夕方17時。


 僕は今日も昼から解剖学教室に来て、昨日の午後から始めた免疫染色の2日目の作業に取り組んでいた。



 解川先輩に貰ったマニュアルを参照しつつブロッキング、二次抗体滴下、発色、核染色、脱水と手順を進め、最後に4枚のプレパラートを封入装置に入れてスイッチを押すと僕はようやく気が休まった。


 先輩は単に作業をやって見せるだけではなくそれぞれの手技の意味まで丁寧に教えてくれたので、僕もほとんどの手順は単独で済ませることができた。


 あの日は朝の10時から夕方17時まで大変だったが、先輩はそれだけ真剣に指導してくれていたのだと改めて実感できた。



 医学研究に限らず複雑な手順は暗記するのが大変だが、それぞれの手技は何のために行うのかを理解できていれば記憶に残りやすくなる。


 僕らが普段受けている大学の講義にしても人気の高い先生ほど複雑な内容を省略せず、それでいて確実に生徒の印象に残るような教え方をしてくれる。



 医学生が在学中に教わる内容はここ10年に限ってもどんどん増えていて、日本の医師免許が歯科を除くすべての臨床科を包括するものである以上医学生の学習量は適宜調整されても減ることはないだろう。


 そういう時代に求められるのは解川先輩のような医学部教員であり、僕も基礎医学系の教員になる以上は今後も優秀な先輩を見習っていきたいと思った。



 封入装置からプレパラートを取り出し、核染色で青色に染まった標本がカバーグラスに覆われたことを確認してからピンセットで掴んでマッペに移す。


 蓋を閉めたことを確認して封入装置の電源を切ると僕は元いた場所に戻り、マッペを机上に置いてから丸椅子に腰かけた。



 合計で20枚のプレパラートが入る小型のマッペ。


 そこに並んでいるのはたった4枚だが、僕が初めて自力で染色したプレパラートだと思うと少しだけ誇らしい気持ちになった。



「失礼しまーす」


 マッペを眺めて浮かれていた所に元気な声が届き、僕はビクッ! という効果音がしそうな感じでうろたえた。



「なになに、封入終わったところ?」

「ヤミ子先輩!」


 まるで実家のような気軽さで実験室内を歩いてきたのは僕に最初のオリエンテーションを行った山井理子先輩、通称ヤミ子先輩だった。


 何らかの実験をしに来た訳ではないのか、先輩は白衣を着ておらず私服のままだった。



 前回会ってから1週間も経っていないのだが、ここ数日は解川先輩以外とほとんど話さなかったこともあってかなり久々に顔を見た気がした。



「あれ、結構ちゃんと染色できてる。今日もさっちゃんとマンツーマンだったの?」


 4枚のプレパラートを一瞥し、ヤミ子先輩は僕に尋ねた。


 肉眼ではしっかり染色できたか分からないと思うのだが病理のプロのヤミ子先輩には見えるのかもしれない。



「いえ、発色とか核染色は教えて貰いましたけど他は大体一人でやれました」


 僕はそう答えて、解川先輩にマニュアルも貰いましたしと付け加えた。



「さっちゃんは確かに教えるの上手だけど、1回聞いて大体理解できてるのはやっぱりセンスあるよ。そのうち病理に誘うかも」

「そこまでですか?」


 僕は現時点で病理学とは何なのかさえ知らないので、ヤミ子先輩の判断基準が分からない。


 組織学では動物の正常な組織を観察するのに対して病理学では病気の組織(病変)を観察するという話は解剖学教室の先生から聞いていたが、本当にそれだけの知識だ。



「っていっても生化も生理も微生も薬理もまだ習ってない段階じゃ分かんないよね。今のは聞き流して」


 先輩は苦笑しつつ言うと、おもむろに僕の隣の椅子に座った。


 初めて会った時も思ったが結構ノリが軽い人らしい。



「今日ここに来たのには理由があります。それは、白神君を病理学教室の勉強会に招待するためです!」


 ヤミ子先輩は勢いよくそう言うと、僕にカバンから取り出したA4サイズの用紙を手渡した。


 座ったまま会釈して受け取り用紙に目を通すと、そこには、



>2019年3月 病理学教室論文抄読会しょうどくかい 実施要項



 という表題が印字されており、その下に日時と場所、題材とする論文のタイトルなどが書かれていた。


 日にちは3月15日の金曜日、時刻は昼14時からで、論文のタイトルは英語で"A 44-Year-Old Woman with Fever, Chills, Myalgias, and Rash"と書かれていた。



「病理学教室の教授は紀伊きい先生っていうんだけど、学生を集めて定期的に英語の論文を読むイベントをやってるの。研究医養成コース生も何人か来てるから白神君もどう?」


 抄読会という用語の意味が分からなかったがヤミ子先輩の話によれば論文を読むらしい。



「楽しそうですけど、病理学の知識がなくても大丈夫ですか?」


 英語自体は大学入試でも大学の授業でも勉強しているが、1回生の前半に語学としての英語を少し学んで解剖実習の最中に解剖学の英単語を定期試験に出るからと勉強しただけなので、医学英語と呼べるほどのものは人生で習ったことがない。


 2回生になるまで医学英語の授業はないし病理学に関する英語など分かる気がしない。



「全然大丈夫。確かに病理学教室主催のイベントだけど扱う論文のテーマは臨床医学だから。病理学研究に特化した英語の論文なんて私でも中々読めないし、実際に扱うのは論文というより症例報告だから難しいテーマは出てこないよ」


 ヤミ子先輩は手を振ってそう言い、僕の誤解を解いた。


 症例報告というのが何なのかもピンと来ないが臨床医学がテーマなら基礎医学に関する深い知識は問われないだろう。



「分かりました。この日は16時からバイトの面接があるので、途中で抜けてよければぜひ参加したいです」


 予定を思い出しつつ答えると、先輩は、



「ありがとう。長引いても2時間以上かかったことないし途中で帰ってくれても全然問題ないから。紀伊教授にも伝えとくね!」


 と言ってにっこりと笑った。



 やはりヤミ子先輩は親しみやすい人で解川先輩とはかなりキャラクターが違うように思われた。


 友人関係は似たもの同士よりもある程度キャラクターが異なる方が深くなりやすい傾向にあるので、僕は2人が親友の間柄ということにはあまり驚かなかった。




 なお、僕は研究医養成コースの追加カリキュラムについて聞かされた際にバイトをする暇などないと絶望していたがあれから何人かの友達に相談してみた結果、今年から新しく答案添削のアルバイトを始めることになった。


 メッセージアプリで友達に「空き時間に在宅で進められてそこそこのお給料を貰えるバイトはないか」と聞いた時は駄目元だったが、幸いにも北辰ほくしん精鋭予備校という大学受験予備校でバイトをしている友達から条件に合うバイトを紹介して貰えた。



 北辰精鋭予備校は名物講師のCMで有名な大学受験予備校で全国各地に校舎を設置しており、生徒は東京にある本社で収録された映像講義をどの校舎でも受講することができる。


 僕は現役の時も浪人中も地元の塾に通っていたので大学受験で映像講義を利用したことはなかったが、愛媛県内には大手の対面式予備校の校舎が一つもないため北辰や千代田サテライト予備校といった映像授業の予備校に通っている友達は多かった。



 北辰の授業システムについては詳しく知らないが、生徒が利用できるサービスの一つに大学別過去問演習というものがある。


 有名大学の過去問を最大で10年分解いて解説授業(もちろん映像講義)を受けられ答案は校舎に提出すれば添削して返却されるという。


 添削は同じ年度につき3回まで受けられるので最終的には理論上、過去問10年分を完璧に理解できることになる。



 受講料は通常の講義よりやや高いが、志望校の過去問10年分を完全に理解すれば入試の出題傾向は大体掴めるだろうし過去問集を買って自力で勉強するよりも「やらざるを得ない」状況に自分を追い込める点で有意義だと思われた。



 ただし全国の生徒から提出された膨大な枚数の答案を名物講師たちが採点する訳にはいかないので、添削は基本的に大学生のアルバイトが担当している。


 大学生といっても添削できるレベルには差があり、旧帝大や医学部医学科の過去問を添削する人は当然お給料が高いが中堅クラスの大学の過去問しか添削できない人はあまり高いお給料を貰えない。


 一般に医学生は難関の入試を突破しているので僕も今回は医学生であるという点をもって条件のいいバイトを紹介して貰えた。



 金曜16時からのバイトの面接は北辰精鋭予備校の皆月市駅前校で実施されるが、生徒と直接やり取りする仕事ではないので実質的には面接というより能力検査だ。


 僕は数学と化学の答案添削を担当するためその2科目の模擬答案の添削を行って、その結果によりどれくらいのレベルの問題を担当するか、すなわちどれくらいのお給料が貰えるかが決まるという。


 どちらも受験で得意だった科目だし1回生の前半には友達のピンチヒッターで何度か家庭教師の臨時バイトをやっていたので内容も覚えているが、今の状況ではなるべく高いお給料が欲しいので空き時間を見つけて復習しておこうと思った。




 少し話が逸れたがヤミ子先輩は用件を伝え終わるとそのまま実験室を後にして、僕もマッペを指定された棚に置いてから帰宅した。


 それから金曜まではいつも通りに解剖学教室で研修を受け、助教の先生がやっている解剖実習室の管理作業を手伝ったり解川先輩に研究成果の記録法とスライドでの発表方法を教わったりした。


 ご献体の臓器を研究材料として保管している実習室倉庫では実習期間以来久々のホルマリン臭に嗅覚をやられそうになったり、解川先輩の実験ノートの記載密度に圧倒されたり、20代前半とは思えないタッチタイピングの速さに驚いたりと何だかんだで刺激的な日々が続いた。

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