12 気分はとても辛い
2019年3月11日、月曜日。時刻は朝の9時30分頃。
春休み中は毎週月曜・水曜・金曜の朝9時から剣道部の定例練習が行われており、場所は本部キャンパスから徒歩で10分ほどの所にある第二キャンパスの競技場。
競技場というのは剣道場、柔道場、弓道場の3つの建物の総称で、このうち柔道場は剣道場の真上にある。
第二キャンパスにはその他に大学病院の資料保管庫と運動場、体育館があり、ヨット部やスキー部を除くほとんどの運動部は第二キャンパスで活動を行っている。
運動場はラグビー部やサッカー部の、体育館はバスケットボール部(男子・女子)やバドミントン部の練習場所になっているが、どちらも1回生の前半に実施されるスポーツ科学の実技授業にも用いられることがある。
各種の文化部の部室がある文化部棟は本部キャンパスに併設されており、第二キャンパスからさらに少し離れた場所にはテニス部(硬式・軟式)専用のコートとゴルフ部専用の練習場があるらしいが僕はどちらも行ったことがないので詳しくは分からない。
僕がいつも通り競技場に足を運んだのは練習に参加するためではなく、剣道部の先輩に自主退部する旨を正式に申し出てこれまでのお礼を言うためだった。
現主将である新4回生の先輩は実家の都合でちょうど来ていないため次期主将である新3回生の桜木先輩に代理で話を聞いて貰うことになっていた。
日本の大学の医学部は6年制であり、運動部にも当然5回生や6回生の部員は在籍している。
ただ、5回生は1年間の大半が病院実習(クリニカル・クラークシップ)に費やされ、6回生は卒業試験や医師国家試験に向けて勉強漬けとなるため積極的に部活に参加できるのは4回生までとなる。
以前は医学生が受ける国家試験は卒業後の医師国家試験のみだったが2005年からは4回生にも年度末にCBTと
そういう事情もあり、医学部の部活の多くでは4回生あるいは3回生が主将を務めることになっている。
ルール上はどの学年が主将をやっても構わないので、部員数が少ない一部の文化部では5回生や2回生が主将を務めざるを得ないこともあるという。
僕は主将になれるほど真面目に剣道部の活動に取り組んでいた訳ではないが、一部員として十分以上に剣道を楽しんでいたので剣道場に来るのも今日が最後になるという事実は何度考えても残念だった。
剣道部は比較的厳しい部活と言われるが、僕が入部後1年間活動してきた限りでは先輩方は報告・連絡・相談のマナーを心得ていれば用事で活動や試合を休んでも何一つ
大学が国公立でも私立でも現代の医学生は何だかんだで裕福な家庭の子供が多いので、僕から見ていても社会人に求められるマナーを理解できていない学生は少なくない。
理不尽なパワハラがまかり通っていたり対象は男子部員だけとはいえアルハラの文化が残っていたりするクラブも一部にあるとは聞くが、甘やかされて育ってきた医学生が正当な叱責をハラスメントと受け止めている場合も少なくないと思う。
今日だけは絶対に約束の時間に遅れたくないと思って早起きしたが、10時に来て欲しいと言われたのに30分も早く第二キャンパスに来てしまった。
練習は9時から始まっているが退部の理由を考慮して僕は他の部員とは顔を合わせず、桜木先輩とロッカールームで落ち合う予定になっていた。
ロッカールームで一人で待っているのも寂しいなと考えていると、剣道場の隣にある弓道場が目に入った。
少し離れたここからでは内部の様子は分からないが矢が的に命中する音が散発的に聞こえてくる。
弓道部の友達はいないので普段は目もくれずに通り過ぎるが、今はちょうど解川先輩が練習に参加しているはずだった。
集合時刻まで少し覗いてみようかと思い付き、僕は弓道場に近寄ると低い窓の隙間から場内を覗き込んだ。
広い空間での換気の意味もあって剣道場や弓道場は使用中にスリット状の窓を開けることになっている。
位置が低いため中からではあまり気付かれないし、仮に見つかっても悪事を働いている訳ではないので構わないだろうと思った。
予想した通り場内には弓道着に身を包んだ解川先輩の姿があった。
長い弓を手にして反対側にある的に向かい合っており、他の部員の様子も見た限りこれから矢を射る所のようだった。
解川先輩は慣れた様子で一連の
的に向けて放たれた矢は小気味よい音を立てて見事に命中した。
さらに1本、続けてもう1本の矢が放たれ、最後の1本に至るまですべての矢は吸い込まれるように的へと突き刺さった。
矢を構えてから経過した時間はあっという間のはずだが僕には不思議と長く感じられた。
先輩はそれから的に歩み寄り、手早く4本の矢を引き抜くと場内を壁に沿うように
弓道のルールや作法については何一つ知らないが解川先輩が真剣な眼差しで矢を射る姿には清らかな美しさがあり、僕は時間を忘れて練習を眺めていた。
取り付く島もないほど冷たい人だと思ったら一対一では親切だったり丁寧に免疫染色を教えてくれたと思ったらヤミ子先輩に関して謎の警告をしてきた人と同一人物とは思えないが、先輩には先輩で部活の時に見せる顔があるのだろう。
今時の若者は複数のキャラクターを使い分けがちだと嘆く大人は少なくないが、自宅と学校(職場)とそれ以外でまったく同じキャラクターを貫く人はいないだろうし、時と場合に合わせて適切なキャラクターを演じるのもそれはそれで礼儀だと思う。
「よう白神。今日は剣道部の用事で来たんじゃないのか?」
「わっ!」
弓道場内しか見えていない状況で声をかけられ、僕は驚きの声を上げた。
反射的に声を抑えたので場内には聞こえていないだろうが危ない所だった。
1メートルほど離れた所から呼びかけていたのは桜木先輩で、僕は慌てて口を開いた。
「先輩、すみません。ひょっとして、遅刻してました……?」
シャツの袖をまくりながら言うと先輩はハハハと笑いつつ、
「いくら何でも驚きすぎだ。まだ9時45分にもなってないし、むしろ早く来てて感心したよ」
と言った。
腕時計に表示された時刻もその通りで、僕はほっと胸をなで下ろした。
近くで会話して練習の邪魔にならないよう一緒に弓道場から少し離れると、先輩は静かに話し始めた。
「退部したい理由は俺もキャプテンから大体聞いた。誰がどう考えてもやむを得ない事情だし、最後に直接会いたいと言ってくれて俺たちも嬉しかった」
「そう言ってくださると、ありがたいです……」
心身に何の問題もない状態で辞める以上は対面で理由を話すべきだろうと僕は考えたが、最近ではそういう価値観を持たない下級生も多いのかも知れない。
僕が深々と頭を下げると、先輩はジェスチャーで頭を上げるように促した。
ロッカールームには廊下から直接入れるので、僕と桜木先輩はいつも通りの経路を歩きつつ話した。
「詳しい話は改めてロッカールームで聞くし、キャプテンにもちゃんと俺から伝えておく。事情が事情だから、俺もキャプテンもお前の退部理由は他人に一切話さないと約束する。誰かに聞かれても家庭の事情だと突っぱねるからそこは安心して欲しい」
「ありがとうございます!」
先輩方のスマートな心意気に感謝していると、桜木先輩はふと腕を組んでポツリと呟いた。
「ところでお前、解川に惚れてるのか?」
「へっ?」
何か、少し前に同じようなことを聞かれた気がする。
それも解川先輩から。
「ほら、さっき解川を熱心に眺めてただろ。確かに美人だけどまったく知らない相手にしては視線が
「いやいやいやいや、とんでもないです! 知り合いなのは事実ですけどそういう感情は一切ないです!」
桜木先輩の意図を知り、僕は必死で手を振って否定した。
「そうなのか。まあ、差し支えなければそれも後で教えてくれ」
「隠すようなことでもないので、全然いいですよ」
口ではそう言ったが、研究医養成コース生は少し特殊な形だが奨学金を貰っている扱いになるので桜木先輩には解川先輩も僕と同じ立場だとわざわざ話すつもりはない。
無難に「学生研究を指導して貰ったことがある」とだけ伝えることにした。
先ほどの邪推を考慮すると、つい2日前に一日中一緒に染色作業をしていたなどとは言えるはずもない。
「何というか、解川が好きなのかと聞かれてそこまで否定しなくてもと思ったが……」
「……と言うと?」
先輩が少し考え込むようにしてそう言ったので、僕は意味を尋ねた。
「お前が解川に惚れてないって聞いて先輩として安心したよ。俺の学年でもお前の学年でも、あいつに告白して玉砕した奴は少なくないからな」
「やっぱり結構人気なんですね」
純粋にかわいいのはもちろん、普通に話している限りでは魅力的なクールビューティーなので予想通りだと思った。
「振られた奴に聞いた限りでは、どうも他に好きな男がいるらしい。付き合ってはないけどまだ諦めきれないから他の男との交際は断ることにしてるそうだ」
「はあ、なるほど……って、おと」
男!? と言おうとして、僕は慌てて口を塞いだ。
「え、今何て言った?」
「いや、あの、大人しい子だから一途な恋愛をしてるのかなと思って」
「やけにロマンティックな発想だな。まあ解川なら不思議でもないけどな」
慌ててごまかし、桜木先輩には気付かれずに済んだ。
それにしても、他に好きな男がいるというのは……
まあ、嘘だと思う。
それから僕らはロッカールームに入り、私服から運動着に着替える時に使う長椅子に腰かけて30分ほど話した。
死んだ父親に愛人がいたこと、そのせいで父親の死後に借金を背負う羽目になったこと、学費が払えなくなって研究医養成コースに応募したこと。
金銭的な問題でこれ以上部活を続けられないこと、在学中に戻ってこられる見込みもないこと。
本当に剣道部の活動が好きだったこと、友達や先輩とは退部した後も仲良くやっていきたいこと。
そして、これまで僕を優しく導いてくれた先輩たちへの感謝。
言おうと思っていたことはすべて伝え、僕は桜木先輩にもう一度深く頭を下げると黙ってロッカールームを後にした。
僕も途中から泣きそうになっていたが、先輩が真剣な面持ちのまま涙ぐんでいるのを見て最後まで笑顔で立ち去ろうと思った。
競技場の外に出た僕は剣道場から絶対に見えない路地裏に立ち入り、しばらく一人で泣いた。
色々な感情が脳内に溢れ出てきて涙が止まらなかった。
こんなに本気で泣いたのはいつ以来だろうと考えたが、結局思い出せなかった。
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