11 気分はブレイクダウン
「……ねえ、大丈夫?」
丸椅子に腰かけた解川先輩が声をかけてきたが、返事をする気力がない。
机に突っ伏したまま起き上がれない。
先輩にマンツーマン指導を受けつつ免疫染色に取り組み、たった2枚のプレパラートの染色が完了した時には17時を回っていた。
途中で休憩を兼ねて土曜営業中の学生食堂に行ったし、初回なので解説を挟みつつの指導だったし、普段は2日間に分けて行う作業だとは聞いてるけど……
ひたすら疲れた。
それはそれとして解川先輩が昼食をおごってくれたのは嬉しかった。
「初めてにしては手際良かったよ」
「本当ですか……?」
何とか机から上半身を起こし、先輩の顔を見て尋ねた。
頭がクラクラして、また先輩が愛らしいエプロンを着た料理教室の先生に見えてくる。
核染色に入ったぐらいから意識がもうろうとしていたので、もはや自分がまともに手を動かせていたかも覚えていない。
後輩に気を遣っているのかとも思ったが表情を見るに嘘でもないらしい。
「マニュアルを渡しておくから、次回からはできるだけ白神君が自力で進めて分からないことがあったら聞きにきて」
解川先輩は持参していたファイルからホッチキス止めの用紙を取り出すと僕に差し出した。
解説しながら時々見ていたマニュアルと同じものらしい。
免疫染色には慣れているといっても解川先輩にしてみれば自分の研究とは関係ない作業に長い時間を割いてくれた訳で、今になって感謝が身に染みてきた。
「先輩もお忙しい中、こんなに長く指導して頂いて申し訳ないです」
「これも仕事だから。気にしないで」
深々と頭を下げて感謝を伝えると先輩は無表情で眼を逸らしたが、昨日会った時よりはずっと距離が縮まった気がした。
「明日は休みだから、次回は月曜に来て。もう1回免疫染色をやって貰うけど、次は作業を2日間に分けるから今日よりは楽だと思う」
「分かりました。何時ぐらいに来ればいいですか?」
「午前でも午後でもいいけど、午前中は弓道部の練習があるからその間は教えてあげられない」
先輩は弓道部員だと知り、確かにそれらしい雰囲気だと思った。
「僕もその日の午前中は用事があるので、13時には来ているようにします」
剣道部を辞める件は部外者に言うことでもないと判断して用事の内容は黙っておいた。
「分かった。次もよろしく」
先輩はそう言うとさっさと立ち上がり、無言で学生研究員室に戻った。
と思ったら無言で引き返してきて、先ほどまで座っていた丸椅子に腰を下ろした。
「白神君、言い忘れてたけど」
先輩はそこまで言うと少し黙って、何かを言いたそうな表情になった。
「はい……?」
意味が分からず困っていると、先輩は一息に、
「染色法は私がしっかり教えるし、これから生化学教室とかでも習うと思うから、ヤミ子に改めて教わったりしないでね。あの子は忙しいの」
と言った。
正論にも聞こえるけど、染色法は研究者によって異なる流儀があるってさっき先輩自身が言ってたような……
「分かった?」
「はい……」
やっぱり解川先輩はよく分からない人なのかと思ったが、発言の真意を尋ねる体力が残っていなかったのでそう答えるしかなかった。
「二人っきりで何時間も染色とかしないで。若い男女が一つ屋根の下なんて道徳的にもよくないし」
「あの、僕らも若い男女では……?」
「私はいいの」
これもう分かんないな。
「ちょっと変なこと言ったかもだけど、来週もちゃんと指導するからね」
先輩は早口でそう言うとそのまま実験室を出ていった。
ちょっとで済むレベルじゃないと思った。
解川先輩はやたらとヤミ子先輩の話題を出すけど、どういう意図なのだろう。
「まさか、僕に恋して、それでヤミ子先輩に嫉妬を……」
そんな訳がない。
というより、あの子が僕に恋することは今後一切ないだろうと確信できた。
僕にというか、僕のような人間にというか……
うーん、微妙だ。
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