10 さっちゃんの免疫染色教室 実践編

 たんたかたかたかたんたんたん♪


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 解剖学ガール、さっちゃんの免疫染色教室です。


 前回は話が複雑で免疫染色の具体的な手順まで説明できなかったので、今回はなるべく簡潔に進めていきます。



 手順はつらつらと書き連ねず、項目ごとに番号を振って説明します。


 それではレディーゴー。



 1.脱パラフィン


 染色前のプレパラート上にある組織はろうの一種であるパラフィンに埋め込まれているため、まずはパラフィンをかして取り除く必要があります。


 プレパラートをバスケットに格納し、バスケットごと試薬に浸けていきます。


 このバスケットはキシレンやアルコールを入れる染色瓶にジャストフィットするように設計されており、一つのバスケットには最大で20枚のプレパラートを格納できます。


 免疫染色に慣れてくると同時に最大20枚のプレパラートを染色できる訳ですが、複数のバスケットを同時に使用して一度に40枚や60枚の染色を行う猛者も実在します。


 一見すると大変そうですが、一度に大量のプレパラートを片付ければその分だけ染色の実施回数が減るので長い研究生活を考えるとむしろ楽なのかもしれません。


 急がば回れというより急がば強行突破という感じですね。



 バスケットを3瓶のキシレンに30分・2分・2分ずつ浸け、それから3瓶の純アルコールに10分・5分・5分ずつ浸けます。


 この段階でパラフィンは融けているため、水道水を溜めたバケツに水道水を流しつつ3分間浸けて(流水水洗)、生成装置から蒸留水を出して3回洗います。


 洗うといってもバスケットに直接蒸留水を当てると標本が傷つくのでバスケットを入れた空の染色瓶に蒸留水を流して洗います。


 例えるなら直接水道水に手を当てるのではなく水道水を溜めたバケツに手を突っ込んで洗うようなものです。自分では試してみたくないですね。



 2.加熱による抗原賦活ふかつ


 免疫染色では抗原となる細胞に抗体を結合させますが、抗体が結合しやすくなるよう事前に抗原を活性化させる(賦活化する)必要があります。


 ただし一部の抗インスリン抗体など抗原賦活化が必要ない抗体も存在します。


 一次抗体の種類によって賦活化の方法は大きく異なるため、必ず製造会社による一次抗体の説明書を参照してください


 賦活化の「賦」って何気に難しいですね。いわゆる書けそうで書けない漢字です。



 今回行うKi-67の免疫染色ではプレパラートを圧力鍋でグツグツ煮て加熱することで賦活化を行います。


 蒸留水1Lを圧力鍋で沸騰させ、抗体の至適pHにするため塩基性キレート剤水溶液を少量加えます。


 ちなみに私の研究室では加熱にIHクッキングヒーターを使っていますが、日常生活でクッキング用でないIHヒーターを見たことがありません。


 いざ進めよキッチン。



 プレパラートをバスケットごと放り込み、鍋の蓋を閉めて加圧します。


 その後蒸気の音が聞こえ始めてから3分経つまで加熱して、すぐにIHヒーターの電源を切ります。


 この状態で操作すると非常に危ないので15分ほど自然冷却してから圧力を抜きます。


 まだ蓋は開けず、水道水を満たしたバケツに鍋ごと浸けて20分ほど流水で冷却します。


 怒っている人をなだめたい時はしばらく放っておいてから冷ややかに接するのが有効なのと同じですね。



 冷却が終わったら鍋の蓋を開け、取り出したバスケットを3分間流水水洗します。


 蒸留水で3回洗ったら界面活性剤入りの緩衝液に浸けましょう。



 3.一次抗体の滴下てきか


 濡れたペーパータオルをいた湿潤箱にすのこ棒を掛け、すのこ上にプレパラートを並べた際に水平になるよう水平器で調節します。


 ここで水平になっていないとプレパラート上に滴下した試薬が流れてしまうので、地味ですが大切な作業です。


 「湿潤箱にすのこ棒を掛ける」という作業は文章で説明するのが難しいので興味のある人は「湿潤箱」で検索してみてください。


 ところで「すのこ」ってどこから来た言葉なんでしょうか。クッキーの棒の両端をチョコレートでコーティングした「すのこの棒」というお菓子を発売しても売れなさそうですね。



 閑話休題。



 バスケットからプレパラートを取り出し、すのこ上に並べます。


 余分な水分はキムワイプで標本に触れないように拭き取り、標本が乾かないうちにKi-67の一次抗体希釈液を滴下します。


 滴下が終わったら湿潤箱の蓋をすぐに閉めてください。


 ちなみにキムワイプというのはアメリカの大手製紙会社が開発した紙製のウエスで、日本でも様々な科学研究に用いられています。


 ウエスという用語も聞いたことがないと思いますが元々は「機械器具類の清掃に用いられる布切れ」という意味らしいです。


 説明されてもよく分かりませんが、何にせよプレパラートのような繊細なものを拭く際にはキムワイプを使うことが推奨されています。


 ところでウエスって響きがウエハースみたいですね。キムワイプの容器を模した「キムワイプマンチョコ」というウエハース菓子を発売しても絶対売れないですね。



 閑話休題。



 このまま次の行程に進む場合は40分ほど待ってから湿潤箱を開け、プレパラートを取り出します。


 免疫染色は1回の実施にかなりの時間がかかる関係上2日間に分けて行う人も多く、私も普段はそうしています。


 その場合は湿潤箱を翌日まで冷蔵庫で保存します。



 4.内因性ペルオキシダーゼブロッキング


 湿潤箱を開けてプレパラートを取り出し、再びバスケットに格納してから界面活性剤入りの緩衝液に5分ずつ浸けて3回洗います。


 過酸化水素水加メタノールを染色瓶に満たし、バスケットを浸けて40分待機します。


 過酸化水素もメタノールも劇薬に分類される危険な試薬で、使用する際には所定の帳面に使用前・使用後の残量(容器ごと量った重さ)と差し引きで求める使用量を記録する必要があります。


 記帳を忘れると先生に厳しく叱られますが、そもそも劇薬の厳密な管理は社会に対する義務なので医学生の皆さんはくれぐれも気を付けてください。



 2種類の劇薬を混合した試薬である過酸化水素加メタノールも当然危険ですが、見た目は無色透明の溶液なので染色瓶に移した本人以外にはただの水に見えます。


 誰かが知らずに染色瓶を倒してしまったりすると大変なので、バスケットを浸けたら染色瓶にはアルミホイルで蓋をしてその上から「過酸化水素加メタノール使用中!」といった注意書きをしたポストイットを貼るとよいでしょう。


 暇な時は「この染色瓶、危険につき。」とか「この溶液も巨大な不発弾。自爆、誘爆、御用心。」とか書いてもいいと思います。



 冗談です。



 わざわざ危険な試薬を使って長時間を費やすのは何故かというと、それは内因性のペルオキシダーゼをブロッキングするためです。


 何一つ説明になっていませんが、この仕組みも結構複雑なのでなるべく簡単に説明します。


 この後に二次抗体を一次抗体に結合させてから脂溶性発色剤による染色を行いますが、一部の細胞が持つ内因性ペルオキシダーゼという物質は発色剤に反応する性質があります。


 免疫染色では二次抗体だけを発色させたい訳なので、目的とする物質でない内因性ペルオキシダーゼが発色しないようあらかじめ過酸化水素加メタノールで処理するのです。



 聞くところによれば合コンの幹事の女の子が自分よりかわいい友達を誘わないのと同じ原理らしいです。


 私は興味ないですが。



 40分経ったらバスケットを取り出し、3分間流水水洗してから蒸留水で3回洗います。


 言い忘れていましたが、免疫染色ではキシレンや過酸化水素加メタノールといった危険な試薬にバスケットを浸すことが多いのでバスケットは必ずピンセットで持ち運ぶようにしてください。


 ちょうどピンセットでつまみやすい構造になっていますし、手袋を着用して掴むよりも清潔に扱えます。



 流水水洗の間に、忘れないうちに染色瓶の過酸化水素加メタノールを廃液タンクに捨てます。


 この試薬は有機系の化学物質なので必ず有機系廃液タンクに捨ててください。


 有機系廃液と無機系廃液の分別を怠ると何が起こるか分かりません。適当に混ぜて捨てていたら廃液タンクがボカン! と爆発したという事例もあるそうです。


 タンクボカンをシリーズ化してはいけません。



 キシレンやメタノールが有機系試薬というのは高校化学の知識で分かりますが、ヘマトキシリンは無機系廃液、エオジンは有機系廃液といった区別は分かりにくいため必ず試薬廃棄に関する大学の規則を確認してください。


 蒸留水で洗ったらバスケットを再び界面活性剤入りの緩衝液に2分ずつ2回浸けます。



 5.二次抗体試薬の滴下


 バスケットからプレパラートを取り出して湿潤箱のすのこ上に並べます。


 余分な水分はキムワイプで標本に触れないように拭き取り、標本が乾かないうちに二次抗体試薬を滴下します。


 滴下が終わったら湿潤箱の蓋をすぐに閉めて30分待機します。


 30分経過したら界面活性剤を「含まない」緩衝液に5分ずつ3回浸けます。


 界面活性剤を含まない緩衝液はこのタイミングでしか使いません。



 理由の詳細は私も知りませんが、ここで界面活性剤を含まない緩衝液を使っておくと発色剤を滴下する際に綺麗に発色しやすくなるそうです。


 研究の世界ではテクニックが口伝くでんで継承されがちなので、学生研究をやっている医学生が手技の意味を完全に分かっていなくても大目に見てあげてください。



 6.脂溶性発色剤の滴下


 バスケットからプレパラートを1枚取り出してすのこ上に置き、調製しておいた発色試薬を滴下します。


 すぐにストップウォッチで計測を開始し、プレパラートを実験室内の光学顕微鏡のステージに載せて観察します。


 発色剤の滴下により十分な発色が得られるまでの時間は一次抗体の種類によって異なり、反応時間が長すぎても短すぎてもうまく発色しません。


 顕微鏡のピントを合わせて発色の様子を観察し、これ以上待っても発色が強くならないと判断したらすぐにプレパラートを緩衝液中のバスケットに戻します。


 緩衝液中に戻した時点でストップウォッチの計測を止め、その結果を発色剤の反応時間として記録します。


 発色試薬を載せたままプレパラート観察を行うことになるので試薬がステージ上にこぼれたら拭き取ってアルコールで消毒しておきましょう。



 ちなみに実験室で単にアルコールと言う時はエタノールを指します。


 お酒と同じ成分ですが飲用ではない上に身体に良くないので飲まないでください。



 同じ試薬を用いている関係上、最大20枚のプレパラートに対して毎回反応時間を計測する必要はありません。


 残りのプレパラートはすのこ上に並べて発色剤を滴下してから先ほど記録した反応時間が経過するまで待機し、すぐに緩衝液に戻します。


 また、ここまでの手順が正しく行われていれば問題なく発色しているはずですが、組織によっては用いた一次抗体に対してそもそも反応しないことがあります。


 発色が見られなかった場合、実験の手順に誤りがあったのかそもそも一次抗体が反応しない組織だったのかが分からなくなることがあります。



 こういった事態を防ぐため、免疫染色の際は一次抗体に対して必ず反応するプレパラート(陽性コントロール)も同時に染めておくことがあります。


 例えば今回用いる大腸の組織はKi-67に染まりやすいため、腎臓や膵臓をKi-67で染める際の陽性コントロールに用いられます。


 顕微鏡による観察を陽性コントロールに対して行えば、発色していれば手順は正しく遂行されており発色していなければ手順に誤りがあったと確実に判断できます。



 そろそろ余談のネタがなくなってきました。


 すべてのプレパラートを発色させたらバスケットごと流水で5分間水洗します。



 7.核染色


 ここまでの手順では標的とする細胞しか染色されていないので、顕微鏡で観察しても組織における標的細胞の分布が分かりません。


 バックグラウンドが分かりやすくなるようプレパラートをヘマトキシリンに浸けて核染色を行います。


 退行性ヘマトキシリンで満たした染色瓶にバスケットを30秒浸け、純水で3回水洗して余分なヘマトキシリンを落とします。


 バスケットを塩酸アルコールを満たした染色瓶に2回ほど沈めて引き上げ、軽く脱色します。


 その後10分間流水水洗します。



 8.脱水


 これで染色は終了しましたが、最後に標本をカバーグラスに封入する際に水分が残っていると組織像が崩れます。


 アルコールとキシレンに繰り返し浸けることで水分を徹底的に抜きます。


 5瓶のアルコールに1分ずつ、そして5瓶のキシレンに1分ずつ浸ければ冥王星からの遊星爆弾に蹂躙じゅうりんされた地球のごとく水は干上がります。


 波動エンジンを搭載した宇宙戦艦は出てこないのでプレパラート界は滅ぼされた上にカバーグラスで覆われて大気もなくなります。



 9.封入


 実験室の一角にある封入装置を用いてプレパラート上の標本をカバーグラスに封入します。


 封入装置の使用法は機種によって異なるため解説は省略します。


 封入が終わったらプレパラートを取り出してマッペ(木製のプレパラート収納箱)に置いて乾かします。


 この時少しずつ隙間を空けて並べないとプレパラート同士が封入用ののりでくっつくので要注意です。



 長く苦しい免疫染色はこれにて終了です。


 お疲れ様でした。

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