第63話 掴んだ手

 茜がそう言って沙羅に声をかけ、見えない幕に向かって攻撃を繰り返す。その瞬間、バキッと何かが割れる強い音が聞こえた。充が驚いて隣を見ると、茜の髪が燃え上がるように赤く光を放ってた。


「あ、茜……?」


 しかし茜は構わず、蹴りや殴るを繰り返す。そのうちにひびがどんどん広がっていくが、沙羅の靄も大きくなっていた。

 しかし、もう少しで茜がこの幕を破ることができそうだ。


「沙羅! 落ち着いて!」


 充は気持ちを切り替え、祈るような気持ちで、自分ができる限りに彼女に言葉をかける。


「みんな私のこと、嫌いって言った! お父様も、お母様も、みんな私より大輝だいきの方が良いって言うんだもん! だから私……大輝を井戸に突き落とそうとしたんだ……!」


 大輝とは弟のことだろう。


「みんな沙羅が嫌いなんてことはない!」


 充が必死に言うが、沙羅は「あれを見てもそう思うの?」と言って、彼女の弟を囲んでいる人たちの方を指さす。充は「思う!」と断言した。すると沙羅は眉間にしわを寄せる。

 何か心のなかの気持ちが変化したのかもしれないと思い、充は叫んだ。


「君のことを大切に思っている人はいる! 僕も、家族に見捨てられた人間だ! でも、大切に思ってくれる人と出会えた! 沙羅! 君はその人に出会えていないと言うの……⁉」


 すると沙羅の表情が一気に変わった。悲しみなのか、寂しさのか、そういう表情が現れ、否定しようとしているかのようにゆるゆると横に首を振る。


「そ、それは……、それは……」

「君には茜がいるだろう!」


 その瞬間、彼女は忘れていたものを思い出したようにはっとする。そして片言にこういった。


「茜……、私を唯一大切に、して、くれ、た人。でも、私は、大切な、人の、お父さん、を――」


 次の瞬間、沙羅の靄が大きくなって黒雲のようになり、沙羅を隠してしまう。しかしそれと同時に、茜が見えない幕を蹴り破った。靄がどっとこちらの方にも流れ込んでくる。


「茜⁉ え⁉ ちょっと何だこれ……うわっ!」

「充、悪い! 何とか耐えろ!」

「はあ⁉」


 茜はそう言い残すと、逆境のなか沙羅の方へ向かっていった。


――――――――――


「沙羅!」


 茜は黒いもやが荒れ狂うなかを、叫びながら歩く。しかしただの靄ではないので簡単には進まない。まるで砂嵐のごとく、靄が体に当たるたびに砂に当たったような痛みや、熱も持っているのか、焼けたものが飛んでくるような痛みがある。


(体中が痛い……! 酷い邪気だ……!)


 黒い靄の正体は、鬼墨から出てきている邪気である。それが沙羅の負の感情と入り混じって大きくなっているのだ。

 ここで見ていたものは沙羅の過去の記憶。そのため、彼女の姿も過去のものだった。

 しかしこの邪気があるということは、「今」の沙羅もここにいて、しかも堕突鬼きとつきになったままのはずだと、茜は推測する。


「沙羅どこだ!」


 見えない。視界は黒いものに覆われて全く役に立たないのだ。また気配を探ろうにも、大きな邪気に邪魔されて、感じることができなかった。


(何か……何か手掛かりはないか!)


 するとそのときだった。ふと、桃の匂いが香る。


(桃……? もしかして、充が薬を飲ませたのか?)


 充は確かに沙羅に薬を飲ませた。

 しかし、彼が薬を飲ませたのかどうか、茜は知らない。あのときの彼女は、から。


(とにかく、これを頼りに向かおう)


 茜は強い邪気のなかを一歩、また一歩と進んでいく。


(邪気に力を与えるには十分な悲しみだ。沙羅が賢かったのは生来のものだが、それを抑え込まれる生活を強いられていたとは……。あの子が鷹山で半妖たちを差別しなかったのは、自分が「他者と違うがゆえに排除される」立場に置かれたことがあって、同じことをしてはいけないと思っていたからなんだろうな……)


 考えれば考えるだけ悲しくなってくる。何故、心根の優しい者たちばかりが、こんなに悲しい思いをせねばならないのだろう。茜はそういう思いをした人をもう一人知っている。それは他の誰でもない自分の父親だった。


(香りが強くなっている……)


 茜がそう思って立ち止まったときだった。ちらりと白い手の甲が見える。彼女はすかさず手が見えた辺りの靄のなかに右手を突っ込む。無我夢中になって手さぐりに探し、やっとのことでその手を掴んだ。

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