第62話 沙羅の過去
「まさか、聞いていたのか?」
「おそらく」
茜は頷く。
「だけど、どういうことだ? どうして僕たちは沙羅のお父さんと誰かの会話とか、沙羅とお父さんの喧嘩……みたいなものを見ているんだろう?」
充の問いに、茜は顎に手を当てて少し考えたのち、一つの答えを導き出した。
「多分、あたしたちは沙羅の過去を見ているんだ」
驚きの答えに、充は目をまん丸にする。
「嘘だろ⁉ まさか、僕たち昔に来てるってこと⁉」
「いや、さすがにそれはないと思う。あくまで、過去を見ているだけだ。周りを見てみろ。沙羅とあの子の父親以外には、あの若い男しかいない。多分、二人に関係ある人しか出てこないし、あたしたちも見られない」
充は周囲を見回す。確かに屋敷という割には、働いている人を全く見かけない。
(僕が子どもだったときの地主の家には、門の周りに一人いたし、屋敷のなかには女中もいた。不審な人を入れないためだろうな。といっても、あそこの地主の家は抜けがあったけど)
そうでなかったら、充に身代わりをさせていた次兄が、桃を盗ろうなんて思わなかっただろう。それに、子どもだった充が屋敷のなかに招き入れられたのも、最初から痛めつけるつもりだったのだと、今なら思う。
「さっき変だと思ったんだ。屋敷以外の外が畑だけなんて……。少しは民家があってもいいはずだろう? それがないということは、屋敷のなかだけ、沙羅の記憶を元に作られた世界なのかもしれない……」
充は頭を抱えた。「他人の記憶を元に作られた世界」に行けるなど、考えたことがない。
「うう……ややこしい……」
「充、もう少し物語を読んだ方がいいぞ。『
「何で?」
すかさず聞いた。
すると茜はからかうように笑う。
「あり得ないようなことが起きても、呑み込みが早くなる」
つまり充がこの状況を呑み込めていないということだ。しかし、誰だって人様の過去の記憶のなかにいるなど、簡単に「はい、そうですか」などと納得できるはずはない。
「茜は意地悪だ……」と充は思いながらも、いちいち引っ掛かっている場合でもないので、とりあえず頷いておいた。
「……分かったよ。現実に戻ることができたならそうするから、とにかくここから出る方法を考えないか?」
「そうだな。あたしたちが沙羅の過去にいるのは、天つ日のせいだろうが、その目的が――」
するとまた空が晴れて、今度は外から誰かの泣き声が聞こえてきた。茜は舌打ちをする。
「考えるのはあとだ。まずは行こう!」
そう言って廊下を走り出す。縁側までくるとそのまま庭に飛び出し、声が聞こえた方に駆け出した。
(ぬかるんでいない……)
充は心のなかで思う。あれほど強く雨が降っていたにも
「早く来い!」
「あ、待って!」
充は急いで追いかける。
茜の背中を追いかけると、今度は井戸の前に来た。そこでは、沙羅が自分より小さい男の子の首を掴んで、井戸に落とそうとしていた。
充はぎょっとして「何が起こっているんだ⁉」と慌てふためく。その一方で、茜が「やめろ!」と叫んで、止めようとするが、再び透明な幕が張られているのか、近づくことができない。
「過去の記憶に干渉するなってことか! この世界に入れておいてよく言う!」
茜が悪態をつきながら、幕を壊そうと叩く。しかし硬いのかびくともしない。
「沙羅、やめろ!」
今度は充が叫ぶと、異変に気付いた屋敷の女中が近寄って、男の子から沙羅を引き離した。沙羅はそこで呆然とし、男の子は女中に連れられて屋敷へ入っていく。誰もかれもが男の子にそっちのけで、沙羅は構ってもらえない。
「沙羅……!」
見るに堪えなくて、充がぽつりと呟くと、こちらに気づかないはずの沙羅が充と茜の方を向いた。
表情には覇気がなく、何を考えているのか分からない虚無感があるのに、どこか諦めているようなそんな捉えどころのない様子である。
「ねぇ? ずっと見てたでしょう? 私は父上に捨てられたんだよ。頭のいい女はいらないんだってさ」
「違う! そんなことない!」
充は必死に否定するが、聞こえていないのか沙羅の淀んだ言葉は続く。
「男の弟が大事なんだってさ。あれのどこがいいんだか」
沙羅は自分の手から引き離され、人々の輪のなかに入っていた男児をぎろりと見つめた。先程沙羅が井戸に落とそうとしていた子は、彼女の弟であり、地主の跡継ぎだったということだろう。
「女なんか、価値がないんだってさ。頭がいい女は嫁にもいけないから、馬鹿な振りをしろって言うんだ……。愛想のいい可愛らしい子でいろって。村のことや、
そう言って俯くと、彼女の背中から禍々しい黒い
「あれって……」
「鬼墨だ! 沙羅! 感情を抑えろ!」
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