第61話 不穏な話
屋敷の人に見られても気づかれないとはいえ、さすがに断りもなしに人の住まいを闊歩するのは気が気ではない。充は茜に隠れるように少し背を丸めながら、後ろをついていく。
「なあ、どこまでぶっ――急に止まるな!」
周りに意識を向けていたせいで、茜が立ち止まったことに気づかず、背中に思い切りぶつかってしまう。文句を言ったが、茜はそんなことはどうでもいいようで、「悪い」と軽く謝ると、「だが、見ろ」と言って目線で、自分たちが立っている廊下の左側にある部屋を見るように促した。
するとそこには、先程「父上」と呼ばれていた人物が立派な座卓を挟み、若い男と話している。男の髪はもみあげのあたりが肩まであり、そこから首の後ろに向かって徐々に短くなっているせいか、充が立っているところからは顔が見えない。
「
若い男が謝る。すでに挨拶は交わしたのだろうが、まだ本題には入っていないようである。
「構いません」
「ところで、今日主をお呼びになろうと思ったのは、どのようなご用件で?」
すると沙羅の父——如月は慎重な声で、若い男に尋ねた。
「聞いた話によると、あなた方は顧客の様々な要望に応えてくださるのだとか」
「内容と料金によりますが、大抵のことはお受けいたします」
「では……、娘をこの家から追い出す方法はございますか」
その一言に驚いたのは、茜と充だけではなかった。若い男もまさかの依頼に、一瞬間を空けてから「ご冗談を」と言って笑う。しかし、如月は机を拳で叩き「本気です」と怒鳴った。それを見た若い男はすぐに笑いを引っ込め、静かに問う。
「お嬢さんを追い出すのですか? それはどういった理由で?」
「この家のためです」
「家?」
男は不思議そうに聞き返す。すると如月はため息交じりに答えた。
「娘は、あまりにも勉学に興味がありすぎです」
「良いことではありませんか?」
しかし如月はキッと彼を睨め付けた。
「良いわけがありません。女が学問など、末代までの恥です。女は淑やかに、いつか男の妻になることだけを考えていればいい……。娘があまりに勉強をするので、息子は世継ぎの意識がないのか、さっぱりいたしません。お陰でどちらが世継ぎが分かりませんよ」
「地主様の跡継ぎのことについてはよく存じ上げないのですが、男児が世襲するものなのでしょうか」
男の問いに、如月は胡乱な表情を浮かべる。
「不思議なことをお聞きになりますね。どこの世もそれが普通でしょう。女が上に立つなどあり得ません。お尋ねしますが、あなたのところでは女が上に立つことがあるというのですか?」
沙羅の父の質問に、男は静かに答えた。
「……いいえ、ございません」
「そうでございましょう」
如月は満足そうに頷いたが、充は聞いている限り、若い男は彼に合わせて答えただけのように思えた。
「娘は我が家にとって、そしてこの村にとっても害です。勉強をするなと言ってもするのですから、追い出すしかありません。しかし、地主が娘をどこかへやったというのは、さすがに評判が悪いでしょう? ですから、何かいい方法はないかと思ったのです。呪いでも何でもいいから、あの子を我が家から遠ざけてほしいのです」
すると男は一つ尋ねた。
「お嬢さんが結婚できる年齢になるまで、待つのはいけないのですか? それか婚約者を見つけて、その家で預かってもらうとか。そうすれば息子さんへの影響は少なくなる気がするのですが」
男の問いは、充も尤もだと思った。せめてそうなるまで家にいるのは行けないのかと。
だが、如月は断固拒否した。
「駄目です。頭がいい女など誰がもらいましょう?」
充は思わず拳を握っていた。
沙羅の父親は「女は頭が良くてはいけない」と、ただそれだけで自分の娘を分類している。一人の人間として、自分の血を引く娘として大切にしているわけではない。
(境遇は違うけど、沙羅の気持ちが痛いほど分かる……)
家族に己をないがしろにされる気持ちは、充も分かる。
誰も自分のことを気にしていないのだ。生活するのに手一杯というのもあったが、それでも自分のことを気にかけてくれていたら、苦しいなかにも楽しさを見いだせたんじゃないかと充は思う。
しかし、充の父は金に目がくらんで息子を売った。結果的に充にとっては良かったことだけれども、思い出すたびに心の奥底がちりっと焼けるような痛みを感じる。それはやはりどこかで、自分の人生の始まりがあそこにあるから、失いたくないような、否定したくない気持ちがあるからかもしれなかった。
「……そうですか。分かりました。では、一つ手を打ちましょう――」
若い男がそう言って頷く。これから沙羅に何が起こるのだろうと思った瞬間、二人の姿が煙のように消えてしまう。
「また、消えた!」
充がそういうと、茜が彼の腕を小突いた。なんだろうと思って、茜の奥の方に視線を向けると、こちらを背にして静かに部屋を離れていく沙羅の姿があった。
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