第60話 父親と女の子
茜に続いて、充はこそこそと屋敷の敷地に入った。門の反対側から聞こえてきたので、身をかがめ、近くにあった樹木の陰に隠れながら、裏へ回る。近づくにつれて話している内容も、話している人たちの姿もはっきりと分かった。
「何故分からないんだ! 女のお前に勉学はいらぬと言っているだろう!」
そう言っているのは、神経質そうな顔をしたほっそりした男である。彼は何かしらの書物を掴み、腕を上に掲げていた。そして傍にいた十歳くらいの少女が、男が持っている書物を取ろうと必死になっている。
「父上、その本を返してください! どうか、お願いいたします!」
父上、と少女が言っているということは、二人は親子なのだろう。しかし、あまり見たくない場面である。
「馬鹿者! お前が学ぶべきはこれではない。琴をやれとあれほど言っておるだろう」
「琴はあとでいたします。ですから、お願いします!」
「嘘を申すな! そう言って先日もさぼっていたではないか! 何度言っても同じなのが分からないのか!」
すると父親は女の子の左頬を勢いよく打ち、その拍子に女の子は庭に落ちてしまった。
「なっ……!」
見ていた茜が堪らず立ち上がろうとする。しかし植木から出てしまっては、自分たちの姿を見られてしまうので、充は慌てて彼女の腕を掴んで引っ張った。
「ちょっと待て! 気づかれたらどうするっ!」
「構わない!」
茜は充の手を振り払い、植木のなかから飛び出す。正義感があるのはいいが、男を殴るのではないかという勢いで出て行くので、充はハラハラしながら見守った。しかし、闊歩していた茜は突然何かにぶつかったかのように、弾き返されてしまう。
「術がかけられているのか……!」
茜は目の前にある、見えない弾力のある幕のようなものに触れて、悪態をつく。そのとき充は、別のおかしなことに気づいた。
「僕たちのことが見えていないのか……?」
その証拠に、茜が庭先に堂々と立っているにも拘らず、男も沙羅も気づいていない。つまり、こちらからはあちらは見えるのに、そこから先へ進むこともできなければ、あちらがこちらを認識することもないということだ。
そのため、どうやら茜が見えていない父親は、庭に倒れている娘に一言言った。
「そこで反省していろ、沙羅」
父親は本を持ったまま、立ち去ってしまう。そして充たちは、彼の言った名前に耳を疑った。
「さら……? 今、沙羅って言った?」
屋敷の人間がこちらに気づかないと分かり、充も植木から出て、確認するように茜に聞いた。
「ああ……」
「どういうこと? 背も小さいみたいだったし、髪も黒かったけど……」
充が知っている沙羅の背丈は茜の胸くらいで、銀星の血の影響で髪は白くなっている。しかしここにいる彼女の背はもう少し小さく、髪は黒で誰かに結ってもらっているのか、可愛らしく髪が編み込まれていた。――と、再びを確認しようと思ったはずなのに沙羅の姿がない。
「消えた⁉」
充が戸惑い辺りをきょろきょろ見回すと、茜が唇のあたりで人差し指を立て、静かにするように仕草をする。
「どうかしたのか?」
普通に話したところで誰にも気づかれないことは、茜もすでに承知のはずである。それにも拘わらず、何故静かにするのかと思うと、彼女は「声が聞こえた。こっちだ」と言う。充には何も聞こえなかったが、彼女には聞こえたらしい。そして躊躇なく屋敷のなかに向かって走り出す。
「茜⁉ それ以上は進めないはずじゃ――」
充は止めたが、茜は何事もなく屋敷のなかに入れてしまう。
「大丈夫みたいだ。早く来い」
不思議なことにさっきはそれ以上進めなかったはずが、今度は縁側からなかに入ることができる。
「どうなっているんだ?」
充は訳が分からないまま、茜の後ろをついて屋敷のなかに入る。するとそれまで天気が良かった空が急に翳り、厚い雲に覆われたかと思うと強い雨が降ってきた。
「何で雨?」
雨が降る気配がまるでなかったのに何故。充はここで起こる現象に戸惑っていたが、茜は構わず「行くぞ」と言って、ずんずん屋敷のなかに入っていってしまう。
「待って!」
ここで茜とはぐれてしまうと、大変なことになりそうだと思った充は、慌てて追いかけた。
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