第64話 茜の愛情

「沙羅!」


 何とか手は掴んだが、邪気の勢いは弱まらない。

 しかし声は聞こえた。


「離せ……」


 沙羅の声だが、それに別の声が重なっている。男の声のようだ。だが、彼女はそれに構わず、自分よりも小さくて柔らかな手をぎゅっと掴む。


「離さない……!」

 

 鬼墨の邪気を利用して、茜は沙羅が自分を引き離そうとしているのが分かる。だが、だからといって怪我をさせようとまではしていない。どういう理由かは分からないが、手加減しているということだ。そこに茜は希望を見出す。


(もし完全に堕突鬼きとつきになれば、自我などなく、すべてを破壊しようとする。だがそうでないということは、この邪気を払えば元に戻せる可能性はあるはずだ)


 しかし、どうやら薬は完全には効いていないらしい。充が薬を飲ませたから桃の香りがしたのだろうが、沙羅は正気に戻っていない。


(薬で何とかならなかった……。ということは、あたしが邪気を払わなきゃならなないんだろうが、これを払う力はない……)


 茜は自分の無力に、自分の左手を握りしめる。


(こんなとき父様がいれば……!)


 茜が考えていると、沙羅が再び話し始めた。


「見たでしょう? 私の醜い姿を。私に生きる意味はない。親にも必要とされていない。弟にも疎まれる。私の居場所などない」


 茜は首を振り、必死に否定する。


「そんなことはない! 沙羅の居場所はここにある! あたしは沙羅を大切に思っている!」


 すると沙羅の後ろの靄のなかに、茜のよく知った人物の姿がゆらりと現れ、愕然がくぜんとする。


「父様……?」


 それは茜の父親、絳祐の姿だった。だが、目があるはずの場所は、まるで目玉がくりぬかれたようにぽっかりと空いて、空洞になっている。茜はぎりっと奥歯を噛んで、それを睨みつけた。


(よくも……よくも父様を……沙羅を……。馬鹿な術者たちが鬼墨など作らなければ、こんなことにならなかったのに……!)


 すると沙羅の顔の下の部分だけが、靄から現れる。そこには歪んだ笑みを浮かべた口元があった。


「お前にとって私は父親の憎き敵だ。何故愛することができる?」


 沙羅と父の声が重なる。にたっと笑う顔がおぞましい。茜のなかで怒りが沸沸と沸き上がり、激しい衝動に駆られる。


(邪気に、沙羅が思っていないことをいつまでも話させるなら……、父様をあそこに縛り付けておくくらいなら、全て壊して――)


 だが、そのさらに奥に何か光るようなものが見えた。


(何だ、あの光は……?)


 すると、彼女の耳に懐かしい声が聞こえた。


 ――茜、髪を見てご覧。さっきは失敗したけど、今度は大丈夫。私が力を貸してあげる。


 茜はハッとして首の後ろで結えている後ろ髪を前に引っ張り、自分の髪を見た。赤く燃え上がるように光っている。ここまで沙羅のことで必死だったので気づかなかったが、温かな力が茜を柔らかく包み込んでいた。


(父様……)


 久しぶりの父の鬼の気を感じる。そのとき茜はあることに気づいた。


(そうか。だからあたしたちは……)


 茜はようやっと、これまでの沙羅のおかしな行動の意味と、そうさせられた理由を悟った。


「ふふ、ふふふ、ふふふふふ……」

「どうした? 恐ろしくて笑うしかなくなったか?」


 沙羅——いや、彼女の体を使って語り掛ける鬼墨の術者の問いに、茜は笑いながら答えた。


「違う。この糞野郎が。あたしの大切な人たちを全部返してもらう!」


 すると突然沙羅から出ていた邪気のなかから、蛍のような赤い光がざあっとあふれ出てくる。


「何⁉」


 そしてそれが茜の周りに集まると、彼女は左手を顔の前に掲げる。すると、沙羅の後ろにある靄をひっかいた。


「うりゃあ!」


 茜の凛とした声が響くと同時に、引っかかれた場所からパチパチと火花が散り、その瞬間すさまじい勢いで、炎が周囲に広がっていく。


「馬鹿な……!」


 鬼墨の邪気が燃え上がる炎に焼かれ、痛みに耐えるような金切り声が靄のあちこちから聞こえてくる。しかし、一度燃えた場所は次々と他の場所に移っていき、消えることがない。


 一面を覆いつくしていた靄が徐々に炎によって燃えていくと、暗かった場所が一気に明るくなる。それと同時に邪気による体の痛みも徐々に減っていった。

 そして茜の右手の先には、体を乗っ取られていた沙羅も解放されたようで、最後の靄が燃えると、操られていた糸がぷつりと切れたかのように倒れる。それを茜が優しく受け止めた。


「沙羅……!」


 茜は呼びかける。腕のなかには、かすり傷はあるものの、すっかり元に戻った沙羅がいた。


「良かった……! 本当に良かった!」


 そう言うと、茜はぎゅうっと彼女を抱きしめる。すると沙羅は腕のなかでうめいた。 


「苦しい……」

「沙羅!」


 沙羅はゆっくり目を開けると、ぼんやりと茜を見つめる。


「……茜?」

「そうだよ」


 笑う茜から、沙羅は視線を逸らす。そして腕で目のあたりを隠し、ぽつりと本音を吐露した。


「どうして……私を助けたの? 私は、茜のお父さんに酷いことをした男の子どもなんだよ……? それに私がいるせいでお父さんのこと探しにいけないでしょう?」


 しかしいくら待っても返事がない。代わりに腕には温かい水のようなものが当たる。


「茜……?」


 辛抱たまらなくなって腕をどけると、そこにはぽろぽろと涙をこぼした茜の姿があった。沙羅は目をまん丸に見開いた。


「何で、泣いているの……?」

「泣くよ……。なんでそんなに自分を責めるの……。あたしにとってそれが悲しくて仕方がないんだ……」


 沙羅が茜に、嫌な態度を取るようになったのは嫌われるため。「茜の父に酷いことをした男の子ども」だから、茜の愛情を受けるべきではないと思っていたからである。


「沙羅は敵じゃない。それに子どもがした罪を親が背負うなら分かるが、子どもが親の罪を背負うのは間違っている」

「でも……私の過去を見たでしょう?」

「見たよ」


 すると、沙羅はぐっと息を呑む。緊張した様子だった。


「私は誰にも好かれない子なんだよ……?」

「沙羅のお父さんがどう思っているかしらないけど、あたしは嫌いになんてならないよ」

「え?」


 茜の言葉に沙羅は耳を疑うように聞き返した。


「何で?」

「あたしだったら沙羅の好きなようにさせる。勉強だってしたらいい。女が勉強することが悪いなんて思わないよ。少なくとも、あたしの知っている葵堂の時子は、女だけど薬の知識は豊富だよ」

「勉強していいの?」

「当り前」

「本を読んでも」

「もちろん」

「じゃあ……」


 そして沙羅はおずおずと尋ねた。


「私は……茜にとって何?」


 その問いに彼女は優しく笑って答えた。


「沙羅はあたしの大切な家族だ」

「本当……?」

「本当だよ。あたしはあんたが大切なんだ。だから沙羅、戻ってきて……」


 沙羅は涙をこらえるように、ぐっと下唇を噛むと、うん、うん、と何度も大きく頷くと、一言お礼を言った。


「ありが……とう……」


 すると沙羅の緊張がようやく解けたのか、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を流し、大声を出して泣いた。茜はそんな可愛い沙羅をぎゅっと抱きしめた。この思いが、今度こそちゃんと伝わるようにと願いながら。

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