第65話 絳祐

――――――――――


 その頃、山小屋がある開けた場所にたどり着いた類は、おどろおどろしい雰囲気を感じ、絶句していた。何故ならその場所だけ空が濁ったように赤く、雲も黒い。さらに土も、まるで血を吸ったように赤いのだ。


「なんだ、これ……」


 さらに目に見えるのは、茜が堕突鬼きとつきになった沙羅の首を掴み、充がどこかの方向を向いて呆然と立っている様子である。堕突鬼きとつきの近くに弟がいるのが気が気ではなかったが、不思議なことに誰も微動だにしないので奇妙な光景だった。


「これはどういう状況なんだ……」


 ぽつりと呟き、一歩足を踏み出したときだった。それ以上進まぬよう類の肩を強く掴んだ人物が、彼の名を呼んだ。


「類」


 振り向くと、そこには天狐の桜が立っている。それも美しい顔に怒りを顕わにして。


「桜、これって……」


 説明を求められていると察した桜は答えた。


「空と土は邪気によるものだ。だが、充たちのあれは……天つ日の仕業だ」


 眉間のしわを深くし、さらに不快な感情を包み隠さない彼の発言に、類は目を見張る。


「なっ!」

「茜と沙羅のことなのに、充が巻き込まれた。今は『朝見草あさみぐさ』のせいで、沙羅の過去のなかにいる。下手に『領域』に入ると干渉する恐れがあるから、これ以上は進めない」


 朝見草あさみぐさとは、天つ日が使う、他者の記憶を見たり、心のなかを見る術のことである。


「でも、どうして充が? 朝見草あさみぐさって、確か下手をしたら精神が戻ってこないこともあるんじゃ……」


 類は悲痛な顔をした後、額を手で覆った。もし、沙羅の心のなかにとらわれたら、充は帰って来ないこともあるし、戻ってきたとしても廃人になる可能性もある。精神が交わるというのは危険なのだ。


「……そうだな」


 怒りを顕わにしながら静かに同意する桜に、類はぽつりと呟いた。


「桜。私たちには何もできないのでしょうか?」

「この先は不可侵の領域。ことわりを作った者の許可なくして入ることはできない」

「……分かりました。おとなしく待ちます」


 桜は頷くと、眉間にしわを寄せて淡々と言った。


「ああ。もし充が戻って来なかったら、私が天つ日を八つ裂きにする」

「……そうしてください」


 物騒な話をしながら、二人は静かに充が帰ってくるのを待つのだった。


――――――――――


 茜が沙羅と和解していた頃、充は見えない幕からあふれ出てきた靄のせいで気を失っており、ようやく目を覚ましたところだった。


「うう……ん?」


(あれ、なんか甘くていい香り……)


 充は鼻をクンクンさせて、匂いの正体を確かめようとする。この匂いは――。


「桃?」


 そう呟いてから目を開けると、青い空の下で赤くて長い髪の誰かがのぞき込んでいる。茜かと思ったが、「大丈夫ですか?」と尋ねた声は男のものだった。


「あなたは?」


 何となく尋ねると、桃の良い香りと一緒に優しい声が降ってくる。どうやら桃の匂いはこの人から香っていたらしい。


「私は、絳祐こうゆうと申します」


 充は小首を傾げつつ、ぼんやりとその人を見た。赤い髪で、しゃんとした姿勢。誰かに似ているようだけど、でも似ていないような気もする。しかし、名前はどこかで聞いたことがあった。

 すると彼はもう一言付け加える。


「茜の父と言ったら分かりますか?」

「茜のお父さん……」


 僅かな間があったのち、充はようやく誰かが分かって飛び起きた。


「え⁉ 絳祐さん⁉ 本当に⁉」

「はい。よかった、あなたは私のことを知っている人ですね」


 そう言ってにっこりと笑う。本当に優しげな人だが、あっさりとしたきれいな顔立ちを見て、充はもう一度驚く。

 さすがに桜のような、この世の者とは思えないほどの絶世の美人ではない。しかし、この柔らかな笑顔を見たら、誰もがとりこになってしまうんじゃないかと思うような、物腰の柔らかな人——いや、鬼だった。


「そうだ! 茜! 茜はどこに……!」


 鬼墨になってから会っていないと言っていたから、会わせてあげなくてはと思い、きょろきょろとあたりを見渡す。しかし、そこまでして「あれ?」と思った。

 鬼墨になった絳祐さんが、何故ここにいるのだろうか、と。

 すると、絳祐は申し訳なさそうに充に言った。


「すみません。色々説明したいのですが、時間があまりありません。それからあの子と会うときっと感傷に浸ってしまうので、あなたに言伝ことづてをお願いしたいのですが」

「茜に会わなくていいんですか? きっと会いたがっていると思うんですけど……」


 すると絳祐は少し困ったように笑う。


「まあ、そうですね。でも、茜とは巡り合わせがあると思うので、きっともう一度会えると思っているので、大丈夫です」

「そうですか」

「……それで伝言のことですが」

「あ、はい。承ります」


 充は姿勢を正して、座り直した。


「では、こうお伝えください。もし、私の鬼墨を追うならば、『ムラセ レイ』という名の人を訪ねよ、と」

「ムラセレイ……?」

「ええ。どうかお願いします」

「分かりました」


 充は絶対に伝えようと心に決め、真剣に頷く。


「——もう時間ですね」


 どうやら本当に時間がないらしい。充は茜の代わりに絳祐に会ったのは申し訳なく思ったが、絳祐の気持ちを考えると、他人に言伝を頼む気持ちもよく分かった。


「そうですか」


 ええと、どうやって見送ったら……と、充が本気で考えていると、絳祐は立ち上がりながら、一つ思い出したように「あっ」と言った。


「どうかしたんですか?」

「いえ。あなたに謝るのを忘れていたんです。先ほどはご無礼を失礼しました」

「え?」


 充は心当たりがないので小首を傾げると、彼は柔らかな笑みを浮かべて言った。


「あなたが危なかったので、茜の体を使って助けたのは私です」


 そう言って、絳祐は軽く片目で瞬きをする。何気ない仕草にいちいち心を奪われそうだ。いや、そうではない。「茜を使って助けた」?


「うん?」

「それでは、またどこかでお会いしましょう」


 もうちょっと説明が欲しいと思った充だったが、急に絳祐からまばゆい光が放たれ、それどころではなくなる。


「うわっ、眩しい……!」


 充は目を瞑り、さらに顔を袖で隠した。これは一度体験している。ということは、もしかすると――。

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