第37話 提案
「あ?」
「あなたがミツル君を明日も働かせるというのであれば、彼が明日以降、成人するまでこの家で働く分のお金を支払いましょう。その代わり、この子を養子にもらいます」
「金……金だと……?」
父の表情から急に怒りが引いていき、驚いた顔をする。しかし驚いたのは父だけではなかった。母も、奥で見守っていた姉も、そして充もである。しかし、このうち父と充は明るい展望を見ていた。
「どうですか?」
修はにっこりと笑う。
「……い、いくらだ?」
手のひらを返して尋ねる父を、母が袖を掴んで止めた。
「あんた、やめておくれ!」
しかし、修はそれを聞かずに答える。
「五両でいかがでしょう」
充には、その金がどれくらいのものを指すのかよくわからなかったが、百姓ならば将来決して手にできないくらいの大金であることは想像できた。
「ご、ご……!」
「あんた、まさかミツルを売る気じゃないだろうね⁉」
父は母に掴まれた袖を振りほどき、すぐに返事をした。
「売った!」
「あんた、ちょっと待っておくれ! 本当にミツルを売るっていうのかい?」
「うるせえな。ミツルが養子に行ってくれることで、うちには金が入る。その上、一人食い
「それは、そうだけどさ……」
「家には働き者が残って、厄介者がいなくなる。これ以上いいことはねぇだろう」
「……」
父にそう言われると母は俯いた。逆らうわけにもいかないので、それ以上何も言えないということだろう。
「……ミツルは、それでいいの?」
母から一歩引いたところで事の成り行きを聞いていた姉が、母の傍に立って心配そうに聞いてきた。
「姉さん……」
心配してくれているのだ。そう思うと、充は嬉しくなった。いつも末の妹と弟にかまけている姉も、本当は自分のことを気にかけているのだと。
だがその喜びの熱は、次兄の一言で冷や水を浴びせられたかのように、さっと覚めてしまった。
「ミツルが可哀そうだ。俺が代わりに行ってやるよ」
寂しそうな顔をする次兄。だがそれは、自分がここから逃れたいがための偽りの姿だろう。
(父さんにあれだけのお金を出せるのだから、兄さんはお金持ちの修さんについていった方が、いい生活ができると思っているんだ……!)
充は自分の髪の毛が逆立つのを感じた。今にも殴りかかりたいような気分だったが、怒りのような、腹立たしさのような激情を何とか抑え込むために、太ももの横でぎゅっと拳を握りしめて我慢すると、哀愁のある笑みを浮かべてはっきりと言った。
「兄さん、姉さんありがとう。でも、僕がこの人の養子になるよ。だって、その方が皆のためにもなるからね」
すると、次兄は一瞬だけ鼻に皺を寄せたが、すぐに「そっか。じゃあ、勝手にしろよ」と苛立った様子で言った。自分の思うとおりにいかなかったから、悔しかったのだろう。
(僕はもう、兄さんのためには生きないよ)
充が心のなかで気持ちに区切りをつけると、何かを察した修は充と手を繋いだ。見上げると「本当にいい?」と問うているような顔があった。充がこくりと頷くと、修が優しい笑みを浮かべた。
「本人の意見も聞けましたし、ご主人の許可を得たということで、取引は成立ですね。明日畑仕事が終わる夕方ころ、地主様のところにいらしてください。手続きをいたします。お金もそこで。よろしいですね?」
「ああ、構わねえよ」
金が入ると分かり上機嫌になった父はそういうと、家のなかに入っていく。次兄はすでに引っ込み、母と姉だけが心配そうに充のことを見ていた。長兄は部屋の奥で末の弟と妹の面倒を見ていたためか、一切口は出さなかったし、こちらには背を向けていて見送る気もないようだった。それが何を意味するのか、このときの充はまだ分からなかったが、ただ長兄には元気でいてほしいと弟の一人として思った。
「ミツル……」
母が今にも泣きそうな顔をする。「ミツル」と呼んだ一言には、どう言っていいのか困っているような、引き留めたいような、だが引き留められない気持ちがあるような、そんな複雑なものがあるように思えた。
「会いたかったら会いに来ていいんですよ」
修が充に耳打ちしたが、彼は首を横に振った。
決めたのだ。もう、この家には戻らないと。
「母さん、姉さん、今までありがとう。さようなら」
この後、充は地主を介して正式に修の養子となった。そして、「ミツル」という名には「充」という字を与えられ、薬屋の息子として育てられたのである。
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