第38話 麗人の頼み
充が葵家の養子にしてもらい、早十年。
養父も養母も、義兄も、一緒に生活する日が長引けば長引くほど、自分を捨てることはないだろうという気持ちは強まっていた。彼らはとても優しい。本当に充に愛情を注いでくれた。だがそれと同時に、突き放されることを酷く恐れていたのだ。
血が繋がった家族との別れは大して悲しくはなかったのに、葵堂の家族に捨てられたと考えてみると、心が裂かれそうな痛みになってしまうことだろう。
充は今の家族がとても大切で、大好きで、失いたくなくて。そして「僕を捨てないでほしい」と強く願っている。
「私は
桜は充を見て、優しく笑う。
彼の笑みの奥に、充が大切にしている家族が見えたように思えて、気が付いたら目から涙が零れていた。
「どうした、充?」
心配そうな表情を浮かべて問う彼に、充は答えた。
「僕……、少し前まで母さんたちに、『もしかしたら捨てられるかも』……って思っていたんです……」
すると桜は目を細め、優しい声で尋ねた。
「時子たちは優しくないか?」
充は首を強く横に振る。優しい。充には勿体ないくらい優しい。だからこそ不安になる。いつかその優しさがなくなって、突き放されてしまうのではないかと。
葵堂に関わることを秘密にされると、のけ者になったような気分になる。きっと自分ののためを思って言っていないということは、理性では分かっているのだが、気持ちのほうが追いつかない。
桜はふっと笑う。
「時子は言葉足らずだからな。修は旅に出てから暫く帰って来ないし、類も傍にいなかったから、充が心細く思うのも当然だろう。でも、大丈夫だ。彼らは充のことを大切に思っている。掴んだ手を離すことはないから安心しなさい」
胸の奥が温かい。大きな優しさで包み込まれているかのようだった。
充は唇をぐっと噛んでそれ以上泣くのを堪えると、我慢している顔を見せないように伏せながらお礼を言った。
「……お菓子をありがとうございます。それと、家族のことも……」
「どういたしまして」
「あの……」
「うん?」
「その……どうして桜は、僕に良くしてくれるんですか?」
「何故そのようなことを聞く?」
不思議そうに尋ねる桜に、充は
「それは、その……僕は、あなたに好かれるようなことを何もしてないから……」
充には、桜に何かしてあげたような記憶がない。幼いころに会ったことがあるのは、言われてみると覚えているが、こちらが貰ってばかりである。それにも拘わらずあまりに好意的なので、人を間違えているんじゃないかという不安に駆られたのだ。だが、充の心配を桜は一つの言葉で消してしまう。
「そのようなことはない」
桜は充の頬を包み込むと、顔をくいっと上に向ける。そして親指で人差し指を滑らすと、そっと涙を拭った。美しい緑色の瞳が、きょとんとした充を映している。
「充は優しい。そなたは誰かのために泣くことができる。私はそれで救われた」
「え?」
どういうことかと聞こうとすると、彼は「まだ、それは秘密だけど……」と言いながら柔らかく笑った。
「そなたは自分が思っている以上に、人に様々なものを与えているよ。時子たちも、大切なそなたが笑ってくれると笑う。私は大切な人たちが笑って過ごしているのを見るのが好きなんだ。充が葵堂に来てくれたことで、あそこはより一層温かになったと思う。だから、ありがとう」
充は胸がきゅうっと締め付けられたような心地がしていた。今の家族以外で、そんな風に思ってくれる存在がいたことに、充は改めて自分が大切にされていることを強く感じた。
「こちらこそ、あなたに会えてよかったです」
充たちは暫く何も話さずに、ただ隣に座ってゆるやかに流れる時間に身を任せていた。
(不思議だ……。どうしてこの人の隣にいると、こんなに穏やかな気持ちになるんだろう……)
いつまでもこのままでいられそうだなと思ったときだった。充がくしゃみをした。
「くしゅっ!」
着こんでいるからとはいえ、縁側でじっとしているのは寒い。充はぶるっと体を震わせると、先程背負い損ねた薬箱をちらと見た。
「帰るか?」
気づいた桜が問うたので、充は失礼な態度だっただろうかと思いつつも、こくりと頷いた。
「はい、今日はもういいと言われたので……」
「そうか。では、薬屋まで送ろう」
「で、でも……」
「私がしたいのだ。駄目だろうか?」
にこりと桜が笑う。麗人にそのように頼まれると、男だろうが女だろうが関係なく、断ることが出来ないのだと、充は初めて気が付くのだった。
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