第29話 「葵」という男
「待ってください、
別の人物が後からきて注意をする。だが「葵」と言われた男は引き下がらなかった。
「そうは言いますが、子どものすすり泣く声が聞こえました。間違いなくここからです」
充のいる部屋が暗くて中がよく見えないのだろう。どうやら泣いていた声で気が付いてくれたらしい。戸が閉まっていたので気づいてくれる大人などいないと思っていただけに、希望の光のように思えた。
「ここは葵殿が入るようなところではないのです。風も冷たくなって参りました。さあ、お部屋に戻りましょう」
使用人と思われる人物が、葵という人を部屋から引き離そうとする。彼らの話ぶりから想像するに、葵は客人だと思われた。
(客なら、もしかすると助けてもらえるかもしれない……)
この屋敷の人間は全員充の敵だ。逃げようとすればきっと捕まえられるに違いない。だからといって客人が信用できる大人かどうか分からなかったが、心配している様子なのは確かだ。充は、少しでもこの状況から抜け出せる可能性があるのなら、すがりたいと思い、客人に気づいてもらえるように喉から声を出した。
「ん、んん……ん、んん!」
本当は「います」と言いたかったが、口には猿轡をされていてできない。しかし、今度は空耳とは思われずに、ちゃんと聞こえるはずである。
「やはりいるではありませんか。こんな暗くて湿っぽいところで何をなさっていたのです?」
充の声に気づいた葵は静かな声で問うた。使用人はしどろもどろに答える。
「いえ、あの……ちょっとした仕置きを……」
「ここで、子どもに? 変だと思いませんか?」
「そ、そうおっしゃられても……」
凛とした指摘に、使用人は観念したようにぼそぼそと事情を説明した。
「この子は、庭の桃を盗ったんです。ですから側役が……、反省するためにしたわけで……」
使用人はそこまで言うと、俯いて口を閉ざしてしまう。
葵は呆れたように息をはくと「そうですか……。では、これからやることには口を出さないで下さい。責任はすべて私が負います」と言い、充のいる部屋に入ろうとした。
「お、お待ちください! 何をなさるおつもりですか⁉」
使用人が素っ頓狂な声をあげて、袖を掴んで止める。
「何があったのか、そこにいる子から事情を聞くのです」
「いけません! その子は百姓よりも身分の低い子なのですよ! まさかその子に慈悲を与えるおつもりですか?」
使用人がどういうつもりで必死になっているのか充には分からなかったが、葵はどこ吹く風だった。
「何をおっしゃっているのか分かりませんね。気になるのでしたら、あなたはただ見ていてください」
「葵殿!」
使用人が葵の名を呼んで止めたが、彼は代わりに冷たく言い放った。
「あなたは私を引き留めますが、何故です? やましいことでもあるのですか?」
「そ、そうではございません! 先程も申し上げましたが、ここは葵殿が入るような場所ではないのです。もし入ったことが主人に知られたら、お咎めを受けます」
「咎めを受けるのは私? それともあなたですか?」
「それはっ……!」
尋ねられて答えられなかった使用人に、葵はやわらかだが、どこかすごみのある声で提案した。
「ですから、これから起こることは私の責任ですと申したではありませんか。あなたに咎が及ばぬようにいたします」
「しかし……!」
「それとも見られたくないものでもあるのですか? ここにいる子どもに何をしたのです?」
「それは、その……悪さをしたので、その……」
「それで?」
「仕置きをするために、閉じ込めていただけで……」
「んうん!」
充はそのやり取りを聞いて、「違う!」と言っていた。しかし、猿轡のせいで言葉にならない。
何かに気づいた葵は「失礼いたします」と言いながら、部屋のなかに入ってきた。使用人は先程と同じように引き留めようとしたが、「止めないでください」という葵の強い言葉に気圧され、止められなかった。
「これでは話したくとも話せないではありませんか」
葵は出入り口から差し込む光を頼りに充を見つけると、顔を見るなりそういった。そして充の頭の後ろに手を伸ばすと、布を外してくれる。鞭に打たれたときに散々噛みしめていたので、唾液でびしょ濡れになっていたが、葵は気にした風もなくそれを外す。そして自分の懐からきれいな布を取り出すと、充の口周りを優しく拭いてくれた。
「さて。教えてくれますか? ここで本当は何があったのかを」
「あの人の……」
充は
「言っていることは違います……。閉じ込められただけじゃありません。何もしていないのに犯人扱いされて、背中を鞭で打たれました……!」
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