第30話 温かな腕のなか

 すると穏やかな雰囲気をまとった葵が、どこか冷え切った声で聞いた。


「鞭打ちをですか?」


 出入り口に立っていた使用人は、体をびくっとさせる。


「それは……」


 彼が言いよどんでいる間に、充は足に力を入れて立ち上がろうとした。もう一度「僕は何もしていないのに、鞭で打たれたんです」と言うために。だが、背中に激痛が走り、その場に再び倒れそうになる。


「うっ……」


 何とか踏ん張ろうとするが、うまく足に力が入らない。このまま倒れたら傷のせいもあって痛いだろうなと思い、覚悟をして目をつむると、葵が倒れる充をふわりと受け止めてくれた。驚いたが、それよりも痛みがなかったことに安堵する。


(あったかい……。あと、何だろう……。草の香りがする……)


 そんなことを思っていると、「どこが痛いですか?」と尋ねられた。充はこんなに気を使ってもらったことがないので、不思議な心地になりつつも小さく答えた。


「背中が……」


 充が呟くと、彼は言い合っていた使用人に「この子を連れて客間に戻ります」と低い声で言った。


「し、しかし……」


 戸惑う彼に、やんわりとした声でしかし強い口調で問うた。


「何か問題でも?」

「ありますよ! 大ありです! この子は地主様が罰を与えるためにここにいれていたのですよ! それなのに勝手に出したとなれば私が責めを負います!」

「ですから、その責任は私がとりますと申したではありませんか。私の我儘わがままなので、あなたはそれに従ったまでだと言えば咎めもないでしょう」

「しかし……」


 言い淀む使用人に、葵は小さくため息をつく。その様子は、何かに嘆いているかのように充には見えた。


「ではこうしましょう。連れ出していけないというのであれば、もうここには薬を売りに来ません。それでもよいですか?」

「……っ」


 葵の提案に、使用人の息が詰まるのが充にも分かった。


(この人は薬屋さんなんだ……)


 そのため彼がここに来なくなると、この屋敷の誰かが困るのだろう。それも、地主に近しい誰かが。


「それは……困ります」

 小さく答える使用人に対し、葵は笑みを向けてもう一度尋ねた。

「では、連れ出して構いませんね?」

 使用人は悩んだ末に、渋々と頷く。

「……分かりました」


 すると葵は、充に優しく声を掛けた。


「君の傷の手当てをしましょう。でも、ここではできないので移動したいのですが、歩けますか?」


 充が遠慮がちに首を横に振ると、葵は「じゃあ、私が抱っこしますね」と言った。


「え、で、でも……」


 手当てをしてくれる人に、抱っこまでしてもらうのは申し訳ないのではないか。そう思っていると、葵は優しく「嫌ですか?」と聞く。


「あの……えっと、そうじゃなくて、僕……汚いし……」


 すると彼は微笑んで、「そんなことは気にしません」と言った。


「おんぶでもいいと思ったのですが、きっと背中を丸めるから痛いと思うんです。それで抱っこを提案したのですがどうでしょう?」

「だ、抱っこがいいです……」


 ためらいながら返事すると、葵はにこっと笑う。


「良かった。では、私の首に腕を回して」


 葵がそう声を掛ける。充はこういうことに慣れていなくて、そろりと彼の首に腕を回す。


「こちらに体重を掛けて」


 充はその優しい声に引かれるように、葵の胸に体を預ける。逞しい体とは言い難かったが、骨ががっしりとしている感じがして、どっしりとした安心感がある。充は彼の腕に抱えられ、暗くて陰鬱な部屋から出たのだった。

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