第1話 妖怪の住む山

「母さん、あの、やっぱり戻りませんか……? ここ変ですよ」


 充は木でできた薬箱を背負い直しながら、前を歩く養母・時子の背にこそっと声を掛けた。


 山のなかは、人の手が入っていない割に道があるので歩きやすいが、時々後ろから落ち葉を踏む音が聞こえてくる。初めは動物かと思ったのだが、さすがに頻繁に聞こえるとそうではないだろう。充たちの他には誰もいないはずなのに、不気味である。


(間違いなく……)


 そう思って、母に「山のふもとにある家に戻りましょう」と提案したつもりだったが、息子の声に気づいて振り返った時子は、柔和な笑みを浮かべ、明るくてふわりとした声で励ます。


「もう少しですから。頑張って」

「…………はい」


 充は返事をしてから、口をきゅっと一文字に結ぶ。


(母さん、そうではありません。山登りが大変だからって、励まされたかったわけじゃないんです。ここには妖怪が住んでいて、足を踏み入れた者は村に帰って来られないと聞くじゃないですか。だからそうなる前に、戻りましょうと言ったつもりなんです……!)


 母が「じゃあ、下りましょうか」と言ってくれることを待っていたのに、彼女は朗らかに笑い、何ということもなく一歩また一歩と先に進んでしまう。


(帰りたい……)


 しかし母が帰らないのであれば、充は「帰る」という選択肢を諦めるしかなかった。


 仮に「この山に妖怪や鬼がいて怖いから帰ります」と言って帰ったとする。母は充を責めることはなく、「いいですよ」と言うに違いない。優しい人なのだ。


 じゃあ何が彼の「帰りたい気持ち」を邪魔をするのかというと、それもまた充の気持ちである。このような怖い山に、母だけ残して去って何かあった日には、後悔する日々を送るに違いない。そうならないためには、嫌でも付いて行くしかないのだ。


(あいつも信用して良いのか分からないし……)


 充は、母の前を歩く裸足の少女の背を見上げた。名は茜と言う。


 先頭に立って道案内をしてくれている彼女は、葵家あおいけが営む薬屋「葵堂あおいどう」へやって来て、「山小屋に診て欲しい患者がいるから、来てもらえないだとうか」と依頼しに来たのだ。


「葵堂」は薬屋であって医者ではない。


 しかし金のない者が、医者を呼べないとき薬屋を頼ることがある。少なくとも一般人よりも、病や怪我に関する知識を持っているからだ。


 そのため充たちが向かっている先には、お金がないけれど医者に見せないといけなような、病か怪我を負っている人がいることが想像される。


(だけど……)


 充は心のなかでぽつりと呟く。


(「人間」がいるんだろうか、この山に……)


 ——鷹山は妖怪の住むところ。


 子どもの頃にそう聞かされているので、人間が住んでいるとは到底思えない。

 いたとしても村の人間ではないだろう。もしかすると、よそからきた旅人かもしれない


 どういう人を診るのか、家を出立するときに聞けばよかったと、充は今更ながら後悔する。


 しかし母が二つ返事で「行きましょう」と言うので、「そういうものなのかな」と思ってしまった自分がいて、聞かずにそのまま付いてきてしまったのである。そして彼は言われるがままに、荷物持ちと助手の役割を兼ねて付き添うことになり、鷹山を目の前まで連れて来られて、初めて危険な依頼だったのではと思った。


 だが、時既に遅しである。

 

 今のところあやかしの姿は見ていないが、後ろで嫌な気配を感じるし、茜も変なのである。変、というのは様子ではなくて姿が変化しているのだ。


 ここに登る前に見たときはあどけなさが残る黒髪の少女だったはずなのに、髪は赤みを帯びていき、身長も大きくなっている。また時折振り返る顔はきりりとし、いつの間にか体の線が大人の女性らしいものになっていた。


(これはだまされている……のでは?)


 充は歩を進めるたびにそんなことを思ったが、母は迷わず進んでしまうし引き返す様子もないので付いていくしかない。


「はあ……」


 きつねに化かされているような気分だったが、母に引き返す気はないようである。ここまで来てしまったら患者を助けるしか帰る方法はないのだろうと、充は腹をくくるのだった。

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