第2話 唸る獣

「ここだよ」


 開けた場所に出ると、雲一つない爽やかな空の下には、縁側付きの立派な山小屋があった。炭焼きされた木を使っているのか、壁も雨戸も一面黒い。壁の色と統一しているのか、屋根の瓦も黒光りしている。


(凄い……)


 人が出入りしないはずの鷹山に、このような立派な山小屋——というよりも屋敷と言った方が近いかもしれない——があることに充は驚いていた。どっしりと構えられた建物には貫禄かんろくがある。


 また古びた様子もない。屋根には傍にある大木の落ち葉があったが、それほど積もっておらず、誰かが手入れしているようだ。しかし人が出入りしないこの場所で、誰がこの小屋の手入れをしているというのだろう。


 もう一つ気になったことがある。それは、天気がいいというのに雨戸が全て取り付けられたままであること。もしかすると、この山にうっかり入ってしまい怪我をした旅人が、妖怪を避けるために雨戸まで閉め切って身を守っているのかもしれない、となどと充は思う。


「ここで少し体を拭きましょう」

「……はい」


 充は頷くと、その場で腰帯に付けていた手ぬぐいを使って露出している肌の汗をぬぐった。


「……」


 日の傾き具合を見る限り、ここまで来るのに半時(一時間)くらいかかっただろうか。山道は、急な斜面もあまりなかったのでそれほど大変ではなかったが、汗はしっかりとかいている。


 充は母と同じように、手ぬぐいで顔や首の後ろなどを拭きつつ、どうしてここで汗を拭くのか不思議に思った。小屋のなかにいる患者を診るのだから、なかに入って少し休ませてもらってからでもいいような気もするのに。


 それとも一刻を争うような状況なのだろうか。いや、そうであるなら猶更ここで呑気に汗を拭いている場合ではないし、そもそも薬屋に治療をお願いする方が間違っている。何としてでも、金をかき集めて医者に見せた方がいい。


「じゃあ、行きましょうか」


 充は母の柔らかな声で、それまで巡らせていた思考を一旦やめる。汗を拭き終えた母は引き締まった顔をして息子を見ていた。仕事をするときの母は、いつもの柔和さが引っ込み、どこにあったのだろうかと思うような鋭さが表に出る。


 それを見ていたら、仕事だけはきちんと終わらせて早く下山できるようにしよう、と充は思うのだった。


「そうですね。早くしましょう」


 頷くと、傍で聞いていた茜が「開けるよ」といって山小屋の引戸に手をかけていた。


(あれ……?)


 充は茜を見て目を見開く。茜の姿に、最初に見たときの面影がほとんど残っていないのだ。髪の色や体の大きさの変化だけではなく、肌の色は褐色となり、爪は鋭く伸びている。


(まさか……ね)


 そうだ。まさか妖ではあるまい——そう思ったときだった。


「何かあればあたしが盾になるけど、一応二人も気を付けて」と言ってから、彼女は引戸を開けた。


 —— 何かあれば、あたしが盾になる。


 茜は確かにそう言った。


「何かあれば」ということは、このなかに危険があるということだろう。充は生唾を飲み込んで、何が起こるか分からない事態に対し、心だけ備える。武術はからっきしなので、心だけ構えるしかないのだ。


沙羅さら、薬屋を連れて来たぞ」


 茜が一歩、二歩と山小屋のなかに入る。恐る恐る彼女に続いていくと、暗がりのなかから獣が威嚇するような唸り声が聞こえてきた。番犬でもいるのだろうか。


(どこから聞こえてくるんだろう……?)


 そう思って視線を巡らせたとき、左腕に何かが当たる。


「ひっ」


 情けない声を出し咄嗟とっさに左側を見ると、母が息子の腕に触れていただけだった。

 

みつる、薬箱こっちにくれる? 静かに、ゆっくりね」

「は……はい」


 早とちりしたことに羞恥を覚えながらも、背負ってきた薬箱をゆっくりと下ろす。一方の母は、真剣なまなざしで小屋の奥を見据えていた。


「母さん?」


 不思議に思って声を掛けると、時子は視線をそのままに、右手の人差し指を唇に当て「静かに」という仕草をする。彼はそれに従って、怖いけれども事の成り行きを静かに見守ることにした。


 充たちが動きを止めてから暫く経ったとき、唸り声がピタリと止んだ。

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