第43話 沙羅が鷹山に来た理由

「いけ、にえ……?」


 充は驚いて歩みを止める。桜はそれに気が付くと、振り返って困ったように笑う。


「これには事情があるんだよ」

「事情ですか?」


 尋ねられた桜は、静かに答えた。


「私は少しでも絳祐の手掛かりになるものがあればと、あの件があってから周辺の村を何度も行き来していた。だが、一年くらい前のある日、沙羅の住む村で大きくて異様な気配を感じてね。調べてみたら、どうやら沙羅の髪に、絳祐で作られた鬼墨が染みついているのが分かった。だが、鬼墨は普通の墨と同じで黒いから、術を用いたことのない人間は髪についていても気づかない。それに厄介なのが、鬼墨は術だから同じように術を用いないと消えないということ」


 充は思わず眉を寄せた。

 術のことも操墨のこともよく分からないが、何かがおかしい。


「染みつく? 沙羅に鬼墨が……?」


 茜の父が、沼に施されていた人間の術にはめられたのは、今から約六年から七年前のことである。 


「桜は、絳祐さんが人の術にはまってしまって以来、手掛かりを見つけるために村に何度も行っていると言いましたよね。でも、気づいたのは一年前。ということは、去年の間に沙羅が鬼墨……、それも絳祐さんで出来たものに触れる機会があったってことですか?」


「それはまだ調べている最中だ。だが鬼墨が付いたまま放置しておくのはまずかったから、村が呪われているだのなんだの適当な嘘をついて、沙羅を生贄にするように言った。それで私が鷹山ここへ連れてきたんだよ」

「まずいというのは、やっぱりその墨によって殺される可能性があるからですか……?」


 鬼墨になると、人を殺すこともできると桜は言っていたので、充はそう予想したが、口にしてからおかしいことに気づく。


「でも……あれ……? その場合って術者がいるときですよね……?」


 ということは、沙羅は誰かに術をかけられたのだろうかと想像する。すると、桜は目を細めて言った。


「一応調べてみたが、術がかかっている様子はなかった。だが鬼墨というのは、鬼墨そのものに強い呪いのような力がある。だから普通の人間は、付いているだけで、己の負の感情が助長され精神が侵されていくのだ。そして、私の予想が正しければ、沙羅はこのまま行くと『白寂はくじゃく』という名の『堕突鬼きとつき』になってしまうだろう」



――――――――――



 充が桜と帰り道を歩きながら話している頃、葵堂では一人来客があった。

 時子は戸が閉まっている店の外に誰かがいる気配があったので、裸足のまま外に出てみる。すると背が高く銀鼠ぎんねずの着物に身を包んだ、黒髪長髪の青年が戸の傍で腕組みをして突っ立っていた。

 彼女はその姿を見るや否や、朗らかな笑みを浮かべる。


「いらっしゃい、銀ちゃん」


 親しげな声で呼ばれた青年は、時子を見下ろす。だが「銀ちゃん」という呼び名が不満だったのか、無愛想な顔にさらに眉間のしわを深くして抗議した。


「その呼び方はやめろと言ったはずだぞ、時子。銀星と呼べ」


 すると時子は残念そうに「可愛いのに……」と呟く。銀星はちょっとした罪悪感が胸に浮かんだが、これまでの経験上、どうせ注意しても再会したときは「『銀ちゃん』と呼ぶのだ」と思ったので気にするのはやめた。


「それより話があるのでしょう? お入りなさいな」


 時子に勧められると、銀星は素直に葵堂の中へ入る。薬屋というだけあって、いろんな薬草の香りが漂っていた。


「もしかして、においがきつい?」


 今は天狐の変化の術を借りているので人間の姿であるが、本来の銀星は半妖である。そして時子は銀星が妖犬ようけんと人間の間に生まれた子であることを知っているので、鼻が利く彼に尋ねたのだ。いい匂いでも、臭いものでも、強ければどちらも彼には有害なものになるためである。

 だが、銀星は「大丈夫だ」と答える。


「煮だされていると、においがきつくなるから逃げ出したくなるが、これくらいなら平気だ」

「それならよかった」


 時子はほっと胸をなでおろすと、てきぱきと温かなお茶などを用意し銀星に出す。そして小さな座卓を隔てて座ると、時子のほうから「沙羅ちゃんと茜ちゃんのことね?」と尋ねた。


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