第32話 手当

 充が十分に水を飲むと、葵は「上の着物を脱いで、少し横になってもらえますか?」と言った。充はこくりと頷き、着物を脱いで座布団を並べた上にうつぶせに寝る。すると、縁側に向けられた障子戸が目に入った。


(暗くなってきてる……)


 夜が近づいてきているようで、障子を染める色が赤から紫に変化していた。そろそろ畑仕事が終わるころだろう。桃を盗み食いしようとしていた次兄さえ見つけなければ、今頃父に頼まれたざるを持って、畑の石を取り除く作業をしていたのだが。


(心配はしてないと思う。どちらかというと怒っているかな……)


 本当はこんなにかかるはずではなかった。ちょっと行って、すぐに畑に帰ってくるつもりだったのだ。


 地主様に、桃が盗まれた話を言えば分かってもらえると思っていたのもあるが、両親に事情を話さなかったのは、話したところで「桃なんて、食っちまえば誰が盗ったか分からないんだから、さっさと畑仕事を手伝え」と言われると思ったのである。それなら、何も話さない方がいいと充は判断したのだ。


 充の考えだが、父と母にとって、正しさはどうでもいいのだと思う。そうでなければ、次兄が悪さをしても「充がやった」と言われ簡単に納得するわけがない。彼らは自分たちと子どもたちが明日生きるために、畑仕事をするので精一杯なのだ。

 仕方ないとは思う。仕事を手伝っているとはいえ、充は養ってもらっている側なので文句は言えない。しかし、それと自分の行為を信じてもらえないのはまた別の話だ。やってない罪をなすり付けられ、家族のなかで肩身の狭い思いをしなければならないのがどれだけ辛いか。罰として食事を抜かれることが、どんなに惨めか。


(あんまり……帰りたくないな)


 次兄と顔を合わせたくないし、両親とも会いたくないと思った。少しでも心配してくれるのならいいが、怒られるならどこか別のところに逃げ出したいくらいである。だが、自分の土地も持てぬ百姓以下の充に、逃げる場所などない。


 するとそのとき、葵が用意されたろうそくに火を灯したので、部屋が一気に明るくなった。しかしそのせいで、充の背の傷もはっきりと見えてしまったようである。


「何て酷いことを……」


 葵は悲痛に呟いた。

 どんな状態になっているかは分からなかったが、沢山の傷ができているのは確かだろう。鞭は着物の上から打たれたが、皮膚が裂けているのは何となく分かる。それ故に、正直自分でも見たくない。

 葵は先程用意した桶を自分の傍に近づけると、持っていた手ぬぐいを湿らせ、充に言った。


「まずは傷口を洗いますね。沁みるとは思いますが、これをしておくと治りが早くなるので、少し我慢してください」


 充がこくりと頷くと、葵がそっと手ぬぐいを背中にあてる。するとその瞬間全身に痛みが走り、思わずけ反った。


「いっ――!」

「痛いですよね、ごめんなさい。そうだ――よかったら、これを噛んでいて」


 そう言って、葵はきれいな手ぬぐいをかしてくれる。


「いいんですか……?」

「ええ。これであなたの痛みが多少でも和らぐのなら、構いませんよ」


 充は葵から借りた手ぬぐいを噛みしめると、再び痛みに耐える。治療の間、葵は「頑張ってください」「大丈夫です」「もう少しですよ」と明るく、そして優しく励ましてくれていた。


「よく頑張りましたね。あとは薬を塗りますね。これは痛くないから力を抜いていてください」


 カチャカチャと何かが音がしたかと思うと、葵は指で薬をとって、充の背中に塗った。

 骨ばった指だった。でも、優しくて温かい。充は自分の体を労わってくれる指に胸がいっぱいになった。

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