第三章 充の過去

第25話 天狐の桜

 充の背に回った桜の手は大きい。そしてぽんぽんと優しく背を叩くのは、幼児にするそれと同じだ。そのため少しずつ気持ちが和らぎ安心して来る。


「あの……」


 充が呟くと、桜はゆっくりと離れてほほ笑んだ。


「大きくなったなぁ。私は嬉しいよ」


 にこにこと笑う桜は、充の隣に座ると懐から何かを探って包みを出した。


「はい、お土産」


 開いた包みからは、桃を月形に切って乾燥させ、白い砂糖をまぶした菓子が現れる。


「これ……」


 それは、充が時子らに引き取られてからすぐのこと。「葵堂」を訪ねて来た客人が持って来てくれていた菓子だった。


桃菓糖とうかとうだ。懐かしいだろう?」


 桃菓糖。それは口に入れると途端に甘さが広がり、少し硬い果肉を噛むと、ふわりと桃の香りが鼻を通る菓子。

 充は人生で初めて見るお菓子だったこともあり、すぐに気に入った。

 しかし、いつからか桃菓糖を持ってきてくれる客人は来なくなってしまったし、子どもながらに高価なものだと察していたので、養父たちにおねだりすることもできず、いつの間にか存在を忘れていたのである。


 だが桜は「懐かしいか?」と聞いた。充すら忘れていたのに、初対面の桜が何故知っているのだろうと小首を傾げる。


「でも何で……?」


 すると、桜は充の手に菓子を包みごと乗せながら答えてくれた。


「そなたが小さかった頃に、桃菓糖を持って来たのは私だ」


 充は目を見張る。


「桜さんが?」

「桜でよい。そう呼んで欲しい」


 頼まれて、充は内心緊張しながらもそっと名を呼んだ。


「えっと……桜が?」


 すると麗人は弾けたように顔をほころばせる。まるで本当に桜が咲いているかのような、華やかな笑みだった。


「そうだ。修と時子が十歳くらいの子どもを迎えたと聞いたから、祝いに持って行ったんだ。充が物珍しそうにしながら桃菓糖を食べると、くりくりとした目を大きく開けて、これほどにおいしい菓子があるのか、と言って破顔したのを昨日のことのように覚えているよ」


 そういえばそんなこともあった――と思ったが、そのときの記憶を思い出しても、どうも目の前にいる桜と姿が一致しない。

 子どものときに桃菓糖を持って来てくれたのは、確か背の高い黒髪の女性だった。


「でも、あのとき家に訪ねてきたのは、黒髪の女の人だったはずですが……」


 躊躇ためらいながら呟くと、桜は「ああ」と言って理由を説明する。


「髪を黒くしていたのは、人にあやかしだと思われないようにだ」


 言われてみれば、桜色の髪で人の前に現れたら驚くに決まっている。


「そうだったんですね。ということは、いらっしゃるたびに変装……されていたということですか? 大変ではありませんでしたか?」


 尋ねる充を見て、桜はふっと笑う。


「いや、変化は狐妖怪の十八番おはこだから、それほど大変ではないよ。ああ、念のために言っておくが、私には人間の言う性別というものがない。あのとき、胸を作って女の姿をしていたのは、その方が菓子を買うのに都合が良かっただけで、大した意味はないよ」

「……」


 あっさりと白状する桜に、充は内心衝撃を受けていた。


(あのとき、すごく綺麗な人がわざわざ僕にお菓子を持って会いに来るから、うっかり思いを寄せそうになったけど、まさか女性どころか人間でもなかったとは……)


 要は、充が男でも女でもない妖を女性だと思って勘違いしていたということである。子どもではあっても、充も男だ。美しい女性に見とれるのも普通のことであるが、事情を知った今、気恥ずかしくなって顔を俯ける。


「どうかしたか?」

「えっ、あ、いえ……何でもありません……」

「そうか」


 桜は少し間を置いてから、懐かしむようにしみじみと昔語りを始めた。


「あのときは、修や時子から、充が少しでも元気になれるようなものを持ってきて欲しいと頼まれていたんだ。時子が言うには、突然別の家の子として生きなくてはいけなくなって、戸惑っているはずだから、と」

「父さんと母さんが……?」


 充がそろそろと顔を上げて問うと、桜はふっと笑って「類も心配していたよ」と言った。


「そう、ですか……」


 何と言ったらいいのだろうか。安心したというか、ようやく腑に落ちたというか。茜が言っていた「時子は言葉が足りていない」ことと、養母をはじめ充のことを心配しているということが一致したような気がしたのだ。


 充は、葵堂の家族に大切にされていると分かっていながらも、もしかするとそれが無くなるんじゃないかとずっと恐れていた。


 実の親は、家計のためにあっさり充を売った。

 血が繋がっていてもそうなのだから、繋がりがないから切り捨てるのはより簡単だろう思っていたのである。もし粗相があれば、その日のうちに「もううちの子じゃなくていいよ」と言われるかもしれない、と。だから充は失敗しないように常に気を付けていたのだ。

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