第九破天荒! 恋しているのさこの夜に!


「臣民の憧憬を背に浴びながら、常に悠々と前を征く。……それが王として生まれ落ちたお前の責務だ」


 物心ついたときより父に語り聞かされ、今日まで影のように自分に付き従っていたその言葉は、今大きな暗黒となり、リガルドの背に重く伸し掛かっていた。

 その言葉を守るためだけに、リガルドは今日までたゆまぬ努力を続けられた。王としての責務は自分を縛る鎖であり、そして敷かれたレールだった。その只中を征く間は何の迷いもなく、ただ後ろだけを気にして歩いていられた。誰にどんな嘘をついても、少しも心は痛まなかった。……だというのに。 


 ――眩しい、私を追い越した者の背中が、あまりにも。


 闇を駆けるトラエスタの背は風のように早く進み、少しづつ離れてゆく。

 月光に映える丘を登る黒馬の脚には、いくら縋ろうとも追いつけず。それなのにリガルドの心からは、不思議と不安が消えていく。

 王族としての責務。付き纏う重圧。これまで背後にあった闇は風に巻かれ、やがて解れて置き去りになる。そうして最後に残ったものは、自分の小さな胸の鼓動と、追い越すべき大きな背中。

 もう後ろを気にする必要はない。ただ今は、前を征く少女の輝きを追いかけていれば良いのだから。

「真剣(マジ!)だ、私は今始めて、本気で誰かに焦がれている……!?」

 熱く火の灯った心の赴くまま、リガルドは月に吠えた。

「・ ・ ・ 覇 ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ッ ! ? 」

 リガルド自身にも訳のわからぬ激情が、体の奥で燃え盛っていた。

 今まで青く掻き消えそうだったその小さな火種はいつの間にか、前から吹く大きな風に強く煽られ、赤く大きく聳えている。

 決して燃え尽きぬよう手綱を強く握りしめ、限界を迎えつつある足腰で鞍上にしがみつき、リガルドは馬を駆った。前を征くトラエスタも、リガルドの気迫に押されながら、必死の姿勢で丘を駆ける。

「「 覇 ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ッ ! ! ! ! 」」

 彼女と肩を並べるためなら、今ここで果てても構わない。

 ただその想いだけで狂ったように駆けるリガルドは、一時トラエスタのすぐ横まで追いついて……しかし丘の頂点に辿り着くまで、結局一度もその背を追い越すことはなかった。

 勝敗は決した。夜の丘で喫したこの敗北なるものは、思えば初めての経験だった。しかしなぜなのか、悪くない気分だった。

 広がる丘の天辺へ辿り着いた、それまで全力で前を走っていたトラエスタの背が、不意に力無く揺らめいた。

 未だ荒く駆ける馬の上に、それまで必死にしがみついていた気高き少女の体は、ふらりと前へ倒れ込むように、地面へ向かい転がり落ちた。一時は随分近付いたと思っていたトラエスタの背中は、実際にはどれだけ手を伸ばしても届かないくらいには遠く、固い大地に叩きつけられる。

「トラエスタッ!!!!」

 全身からとめどなく滴る汗のことも、崩れそうなほど震える膝のことも忘れて、リガルドは下馬して尚、本気でトラエスタを追いかけていた。

 辺りを見下ろせる丘の上、大の字に寝転ぶトラエスタは荒く息を吐き出しながら、死んだように天だけを見つめている。

「死ぬなッ!! トラエスタッ!!」

 ぐったりと力なく倒れ伏すトラエスタを、リガルドは強く抱き締めた。

 この数ヶ月で随分と逞しくなったトラエスタの体は、しかしやはり幼い女子のもので、あまりにも頼りない感触をしている。

「……りがるど、お前、今度は本気で、あたしと勝負してくれたか」

 やっとその傍へ辿り着いたリガルドは、トラエスタを強く抱き締めた。彼女の頬から流れる大粒の雫を拭って、必死に目と目を合わせ続ける。

「当たり前だろう!? こんなに本気で誰かを追いかけたのは、誓って今日が初めてだ!」

「……そうか、なら、あたしはもう、思い残すことは、ねぇ」

「なぜそんなこと言う!? 勝負は君の勝ちだろう!? 私は君の言うことをなんだって聞く! だから、」

 ――早く元気な君に戻ってくれ!

「……良いんだ、もうそんなこたぁ」

「どうして今になってそんな事を言うんだッ!」

 まるで今際の際のように囁いていたトラエスタは拳を上げ、そっとリガルドの顔を指差した。

「……惚れちまったからだ」

「!?」

 唐突な愛の告白に驚くリガルドはしかしすぐに、彼女が自分など見ていないことに気がついた。

 トラエスタの小さな指が示す先。遥か高くに聳える星空をジッと見つめながら、彼女は再び、大きな目から汗をこぼした。

「見ろよリガルド、本気でハシった後の空は、何も言わねぇ、ただギラギラ光ってる。あたしはこんな世界になら、いつ殺されても構わねぇって、今初めてそう思えた」

 ――お前のおかげだ。

 そう言い差し出された小さな手を、リガルドは不思議な思いで握り締めた。

 さっきからこの皇女が何を言っているのか、全く意味が分からない。分からないから、ただその汗に塗れた大きな瞳を、ジッと見つめるより術がなかった。

 そうしている内、やがて迷宮のような思いに入り込んでしまったリガルドは、トラエスタの横にごろりと寝転んだ。今はただ、彼女が見ているものを知りたくて、その瞳をそっと覗いた。

「……確かに綺麗だ、今まで見たことがないくらい」

 満天の星空を映すトラエスタの瞳を、小さな流れ星が通り過ぎた。

 その一瞬の輝きは暫し言葉を奪い去って、二人をこの丘の上へ導いた夜の狂騒は、いつか嘘のように静まり返っていた。

「……トラエスタ。勝負は一勝一敗だ、だからいつかもう一度、ここで真剣(マジ)の勝負をしよう」

「……何度だってやってやるよ、お前が本気でいてくれる内はな」

 そうしてぶつけた二つの拳を、二人はやがて笑い結んだ。

 定められた運命を大きく変え、いつか思い出になるこの奇妙な夜は、今はまだ少しづつ明けてゆくばかり。


 ……破天荒!!

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