紅香の憤怒
先ほど父が訪問してきて、まだ第二子を産めないのか、と催促された。
帝になれるのは帝室の中でも霊力が最も強い者と決まっている。なるべく多くの子を産めば、それだけ紅香の子が即位できる確率が上がる。久保山氏のためにも、早く次の子を。
何なのだ、と紅香は思う。
久保山氏がどうとか父の地位がどうとか、そんなものより前に、紅香は一人の人間だ。少しくらい、尊重してもらいたいものである。
確かに、紅香は子を産むために帝室の人に嫁いだ。それはまたとない名誉であり、女として最上の幸せだ、と周囲の人々は言っている。
逆に、義姉の
どうして、そうなっているのだろう。
どうして、誰に嫁いだとか、誰の子を産んだとか、そんなことで周囲に評価されたり、勝手に気持ちを決めつけられたりしなくてはならないのだろう。
もちろん紅香だって、夫の
その気持ちに偽りは微塵も無いが、それは紅香自身が思っている事なのだ。他人にあれこれ口出しされるいわれはない。
沢山の子宝に恵まれる事は、上津島氏および久保山氏の繁栄に繋がるとか、お国とお家に貢献できるのは光栄な事なのだから、もっと産むのが当然だとか、──うるさい。少し黙っていて欲しい。
紅香は道具ではないし、春哉だって穂垂だって道具ではない。下らない権力闘争のために、都合良く使われて良い存在ではない。
三人とも、当たり前に愛し合い、当たり前に暮らしている、ただそれだけだ。
その事を忘れている人の、何と多い事か。
だいたい、お産とは母子共に命懸けのものだ。穂垂の時だって難産で、紅香は非常に苦しんだ。それを軽率に産め産めと急かされるのは納得いかない。お願いされるならまだしも、まだなのかと急かされるのは腹が立つ。いや、お願いされたところで、どうせ授からないので困るしかないのだが。
第一子の穂垂はもう齢五つになるが、春哉と紅香の間には一向に第二子ができない。恐らく穂垂の時の難産の影響で、紅香の体に何かしらの異変が起きたのだ。
多分、二人目は生まれない。
それならそれで仕方がない。そんなのは誰のせいでもない。ほんのちょっぴり、運が悪かっただけ。夫と共に、たった一人の子どもを慈しみながら生きていこう。
そう紅香は思うのだが、中には紅香を悪し様に言う者もいる。
一人産んだ程度で体を壊すなんて、情けない。帝室の者の妻としての覚悟が足りない。女として役立たずだ。普通はもっと沢山産むのに、何故そんな事もできないのか。
──私にどうしろというのだ。そのやかましい口を縫い留めてやろうか。
……ああ、駄目だ。こんなに苛々していては、ろくに歌も詠めない。少し気分転換をした方が良いだろう。
立ち上がりかけた時、とてとてと足音がして、穂垂が
「母上……」
「どうしましたか、穂垂さん」
穂垂は、目に見えてしゅんとしている。何か嫌な事でもあったのだろうか。
「母上、僕に弟や妹が生まれないのは、僕のせいなのですか?」
「はい?」
何を言われたのか、すぐには紅香には飲み込めなかった。一拍置いてその意味を理解した紅香は、激昂すると同時に、血の気が引く思いがした。
「そんな事はありません! 誰にそのような事を聞いたのですか」
穂垂はふるふると首を振った。
「分かりません」
「知らない人でしたか?」
「はい。かくれんぼをしていたら、聞こえました」
「何と言っていたのです。詳しく聞かせなさい」
「あの……、母上は、もう子どもができなくなったので、残念だと。それから、母上は僕を産んでから、お加減が悪いのだと」
穂垂はだんだんと俯いていった。
その肩を紅香はしっかりと掴んだ。
賢くて優しい子だ。大人の話を聞いて理解して、自力で考える事ができる。それでいて誰かに怒りを感じる事もなく、自分を責めてしまう。
こんな良い子が、理不尽に傷つけられるなんて、絶対に許せない。そんな事があって良いはずがない。
「良いですか、あなたが聞いた話は全て間違いです。その話をした人々は、とても悪い人たちなのです。悪い人たちの嘘のせいで、あなたが悲しむ必要はありません。今すぐに忘れてしまいなさい」
紅香は穂垂を抱き寄せた。
「可哀想に、つらい思いをしましたね」
「……はい」
「よく聞きなさい。もしこの先、穂垂さんに弟や妹が生まれなくても、それは誰のせいでもないのです。次の子が生まれても生まれなくても、私は穂垂さんの事を一等大事に思っています。穂垂さんが生まれてきてくれた事を、とても嬉しく思っています。幸せに思っています。この事を、よくよく覚えておくのですよ」
「……分かりました」
「それから、今度そのような嘘を言う者が居たら、すぐに私か父上に教えなさい。きっとやっつけてやります」
「やっつけるのですか?」
「はい。悪い人は、やっつけなくてはいけないでしょう?」
「上様が、病をやっつけたみたいに?」
「そうです」
しばらく話をして落ち着いた穂垂は、鞠を持って侍従たちとまた遊びに行った。
さて、と紅香は考え込んだ。
これには、自分が悪く言われるのを放置して一人で怒りをこらえていた紅香にも、責任の一端があるかもしれない。
自分から何か行動を起こさない限り、状況が変わるわけがなかった。
怒りを我慢することはないし、むしろもっと怒りを表明するべきだ。
これ以上あの子を悲しませてなるものか。
持てる権力の全てを使ってでも、あの子の耳に嫌な話が入って来ないようにしなくては。
まずは、春哉に今回の件を伝える。次いで、それぞれ侍女たちと侍従たちに、紅香の考えをしっかり共有させておく。
それが済んだら、彼らを利用して、「これ以上悪口を言ったら春哉様と紅香様がお怒りになるぞ」という空気感を作り出す。もっと情報網を巡らせて、誰が陰口を言いがちなのか突き止めさせる。
できないとは言わせない。紅香は太政大臣の妻であり、次期帝の有力候補の母である。
自分のことだけならまだしも、穂垂に関わる事なのだから、なりふり構っていられない。我儘だろうが無理強いだろうが、押し通させてもらう。
そう、誰に嫁いだとか、誰の子を産んだとか、そういった物事はこういう時のために使う力なのだ。
他の誰かが紅香を評価するためではなく、紅香が紅香自身と愛する人々を守るために。
忙しくなってきた。
まずは今から春哉に来てもらって、とことん話し合おう。
紅香は、外出中の夫を呼び出すべく、筆を取った。
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