第三帖 姫帝、お悩みの絶えない事
第9話 神託
桜の花びらが舞い散る中、ひときわ大きな桜の木の下にある岩の上に、その御方は無造作に座っていた。
服装は、単衣と袴だけ。真っ直ぐに切り揃えられた空色の短髪が僅かに風にそよいでいる。
年齢不詳、性別不詳、正体不詳。
「ボクはキミたちに期待していた」
涼葉が伏礼をして挨拶を述べる前に、祖良御魂神はあらぬ方向を向いてそう言った。
「キミたちなら疫病を乗り越えられると思っていた」
「……御期待に添えず申し訳ございません」
涼葉は丁寧に礼をした。正座をして姿勢を正して、岩の上の祖良御魂神を見上げる。祖良御魂神は涼葉の言葉など聞こえていないかのように話を続ける。
「キミたちはまだこの国難を抱えたままだ。もしこれ以上長引くようなら、そろそろボクは、天命の
どきん、と涼葉は凄まじい緊張感に襲われた。
かつて祖良御魂神は、帝室だった日出裏氏を見限り、帝位を取り上げた上、彼らを皆殺しにしてしまった。
天命を失うとはそういうことだ。
涼葉は色を失って平伏した。
「この上津島涼葉、疫病を排除するため粉骨砕身いたします。今しばらくお待ち下さいませ」
「キミたちが頑張るかどうかなど、評価に値しないね」
祖良御魂神は涼葉の言葉をばっさりと切って捨てた。
「政は結果が全てだ。為政者が如何に善良に振る舞おうとも、如何に努力を重ねようとも、病鬼を倒すという結果をもたらすことができないのならば、民にとっては何の意味もない。今この時も、疫病によって民が死んでいる。キミたちが対処できていないせいでね」
ようやくちらりと涼葉に目を向けた祖良御魂神は、淡々とこう告げた。
「キミにはもう、一刻の猶予も無いよ。上津島涼葉」
「……はい」
返事をしたは良いが、一体どうすれば、と悩む涼葉の心の内を見透かしたように、祖良御魂神は再びどこか遠くを見ながら口を開いた。
「夫と協力することだ」
「夫と……」
「キミたちは結婚式で、『互いに助け合い、苦楽を共にし、終生愛を貫く』と、ボクに誓ったじゃないか。さっさとその通りにしなよ」
「……承知いたしました」
「うん。よろしい」
祖良御魂神がそう言った直後、強い風が吹いて、涼葉の視界は桜吹雪で覆い尽くされた。次の瞬間、涼葉は
「ぎいえああああ!」
動揺のあまり、気付けば涼葉は奇声を上げていた。寝ている間にすっかり汗をかいていて、心臓がばくばく脈打っている。
「如何なさいました、上様」
侍女たちが例によってばたばたと駆けつけてくる。涼葉は必死の思いで桐菜に縋りついた。
「祖良御魂神様が……! このままでは上津島氏を滅ぼすと仰って! 疫病が……病鬼が……! わっ、私が何とかしなくては! ああ、どうしましょう!」
「落ち着いてください。まずは状況を整理して、できる限りのことを致しましょう」
「でも、何ができるのかしら……!」
「お家の危機ということでしたら、朝議が始まる前に春哉様を
ああ、本当にこの侍女は、いついかなる時も、何があっても揺るがず動じず、涼葉を良く支えてくれる。
「わ、分かったわ……そうよね、兄上にはいち早く話しておかなくては。ありがとう」
涼葉は空色の打衣と黒茶の袍を着せてもらい、慈浄殿で春哉を待った。じきに、心配そうな顔で春哉がやって来た。
「失礼するよ。神託があったって? 祖良御魂神様は何と仰っていたんだい」
「兄上っ! その、あの御方は私たちが未だ疫病を退けることができていないことをお怒りで。私の代で……いえ、すぐにでも何とかしないと、上津島氏を滅ぼすと仰せなんです」
「それは……」
春哉もさすがに慄いたのか言葉に詰まっていたが、一つ息をつくと落ち着いた調子でこう言った。
「……大丈夫だよ、涼葉。今からできることを一緒に考えよう。まず、神託の内容をもっと詳しく共有してもらえるかな」
涼葉がなるべく正確に祖良御魂神の言葉を思い出して春哉に伝えると、ふむ、と春哉は人差し指を頬に当てた。
「それなら仰せの通り、菊斗様の力を借りるのが良いだろうね。今からでも伝えた方が良い。今日の朝議のことは気にしなくて大丈夫だよ。みなには私から伝えておこう。神託があったために涼葉が遅れて来ると」
「でも、兄上」
「うん?」
「兄上は、心配ではないのですか? もし私が失敗してしまったら、その……」
「心配などしていないよ」
春哉は柔らかく笑った。
「私は涼葉のことを信用しているからね。まあ、なるようになるさ。私も最大限協力すると約束しよう。困ったことがあったらすぐ言うんだよ」
「……。はい……」
「今は菊斗様と相談して、状況を整理しておいで。午後になったらまた話し合おう。とりあえず私は朝議に向かわねば。念の為、神託の内容はまだ伏せておくからね」
「ありがとうございます」
涼葉は膝の上できゅっと拳を握った。
そんなわけで慈浄殿に呼び出された菊斗は、涼葉の話を聞いて青ざめていた。
「つまり、僕が涼葉様をお助けしないと、涼葉様は亡くなられてしまうんですね……?」
「そのようです。重荷を背負わせてしまって申し訳ないですが、協力してもらえますか」
「重荷だなんてとんでもない。僕は涼葉様のためなら命も差し出す覚悟ですよ」
いや、菊斗に死なれては困る。涼葉はいささか慌てた。
「命を懸ける必要は一寸たりともありませんよ。私とて、あなたを守りたいと思っているのですから」
「涼葉様も……」
菊斗は何か考え込んでいるようだったが、やがて決然と涼葉を見上げた。
「僕の協力が御入用ということならば、恐らくは
それは涼葉も思っていたことだった。
「そうですね。私の思いつく限りで、病鬼に決定打を与えられるのは、陸蟲のみです」
兄の藤生も、父の千秋も、民を守るために一人で龍を使って病鬼と対峙したが、あと少しというところで敵わなかったという。そして涼葉の霊力は彼らより弱い。これを踏まえた上で考えられる最善の策は──。
「病鬼を私の
「はい」
涼葉は軽く溜息をついた。
「菊斗を危険に巻き込みたくないばかりに、協力するということに思い至りませんでした。ですが菊斗、決して無理はしないように。良いですね?」
「承知しました」
菊斗は頭を下げた。それから、袖の中から小さな黒い犬を引っ張り出して、手のひらに乗せた。
「僕は今日から少しずつ、おまじないの準備をしようと思います。陸蟲をもっと強くして、戦いに備えるために」
「おまじない……蠱毒ですか」
「はい。陸蟲と一緒に、病魔や毒虫を壺に入れます。陸蟲ならきっと全ての敵を食べて、今より強くなって壺から出てくるでしょう」
「なるほど」
蠱毒とはそもそも、壺の中で複数の虫などに共食いをさせて、勝ち残ったものを使い魔とするおまじないのはずだ。陸蟲は既にその試練を乗り越えてここにいるわけだが、また戦いに身を投じて無事でいられるのだろうか。
「陸蟲が食べられてしまうことはあるのですか?」
「あります」
菊斗はあっさりと答えた。
「とはいえ今の陸蟲の力は残ります。壺から何が出てこようと、陸蟲は陸蟲です。後は僕が調伏すれば、使い魔としての契約が更新されます」
「調伏?」
「蠱毒をさせられたものは、使い手に強い怨念を持っていますから、真っ先に使い手に襲い掛かります。使い手はそれを霊力で退けることで、対象を使い魔として従えるんです」
「まあ!」
涼葉は息を呑んだ。
「陸蟲が菊斗に襲いかかるのですか?」
「はい」
「危ないではありませんか!」
「心配は御無用です。僕はこう見えて、調伏に失敗したことは無いんですよ」
さらりと言ってのけた菊斗の表情を見て、涼葉の心臓は跳ね上がった。ああ、まただ。また菊斗が、とても頼もしい子に見えてきた。
とはいえ今はそれどころではない。だいたい、心配するなというのは無理な相談だ。
「もう一度言いますが、無理をしてはなりませんよ、菊斗。約束です」
「分かりました。約束します。お任せ下さい!」
菊斗は、早速おまじないの準備に取り掛かるということで、慈浄殿を辞した。
その後、遅ればせながら朝議に出席した涼葉は、降り注ぐ質問をのらりくらりとかわして話を終わらせ、春哉を捕まえてさっさと戻った。
「うん、涼葉たちの作戦は分かった。その戦いには私も──」
「なりません、兄上」
涼葉は兄の申し出を断固拒否した。
「私は必ず病鬼を倒さなければなりません。そのためならばどんな手でも使っていい……私は、相打ちになる可能性も考慮に入れています」
「涼葉」
「ゆえに、次の帝となるべき人物は安全な場所にいるべきです。でなければ、誰が空光国を治めるのですか? 穂垂さんですか? まだ龍も授かっていないほど幼いあの子に、帝が務まりますか? きっと貴族たちの良いように使われてしまいますよ」
「それは」
涼葉の早口に気圧されたように、春哉は僅かに身を引いた。
「ですから兄上はこれまで通り、天候の調整に勤しんで下さい。まもなく田植えの季節でしょう。余計なことをしている場合ではありません」
春哉はしばらく黙っていたが、やがて力無く肩をすくめた。
「……残念ながら、涼葉の言い分が正論だね。仕方がない。仰せのままにしよう。でも、相打ちなんていうのは最後の手段にしておくれよ。命あっての物種だからね」
「はい。肝に銘じます」
これで、各々がやるべきことは定まった。
だが、重大な問題が一つ残っている。
涼葉たちには、病鬼の居場所を探る手段が無い。
もう随分と前から、常岩たち竹井沢氏が占いを続けているが、一向に見つからないのだ。
これでは手も足も出ない。実に厄介なことだ。
涼葉たちは、いざ病鬼が発見された時に備えて、力を蓄えておくことしかできないのであった。
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