第11話「俺とフォーティス・3」

 最近、同じような夢を見るんだ。いや、実際は夢ではなく、気が狂ってきた俺が夢と勘違いした、単なる妄想の類かもしれない。夢の輪郭は水に流れるようにその形を変えていくのに、不思議と目に映るもの全てが色鮮やかで、匂いも味もして、まるでここではない別の世界に、ふと迷い込んでしまったような気分だった。

 夢の始まりは毎度違っていた。朝、布団で目覚めて始まることもあれば、第三者の視点から自分を眺めながら始まることもあった。でも全てに共通していたことは、故郷の村で、父さんと母さんと三人で楽しく暮らす夢だったということだ。父さんと母さんはいつも笑っていたから、つられて俺も沢山笑った。笑うと気持ちが良かった。すーっと、心に掛かった黒い靄が晴れ、代わるように、青空に咲く太陽のような火が胸の中に灯った。心の底までじんわりと光と熱に包まれる、春の陽だまりにいるような心地だった。


 だが温かさに満ちた頃、ふと気付くのだ。――あれ? なんで父さんと母さんが生きてるんだ?


 その瞬間、正面から吹き抜けた強い風に、咄嗟に腕で目を覆い隠す。風が止んで、おもむろに腕を除けて目を開けると、そこに映る世界は刹那の間に、一面が真っ暗闇にひっくり返っていた。

 途端に、父さんと母さんは揃って苦しげに胸を押さえて倒れる。宗二は弾かれたように彼らのもとに駆け寄り、必死に手を伸ばすが、不思議と距離感が曖昧で、絶対にその手は届かなかった。そうしている間にも、父さんと母さんは形を失い、闇の中にどろりと溶けて、父と母がこの世にいないことを見せつけるように、たちまち黒色の泥と化す。

 気付いたら宗二は地面に這いつくばっていて、取り囲むようにしてこちらを見下すフォーティスに、腹を、背中を、頭を、繰り返し蹴られ踏まれ、何度も頭が冷たい地面に打ち付けられた。


 ――嫌だ。痛い、寒い、痛い痛い、寒い、痛い。


 苦しさが胸を込み上げてきて涙が溢れ出す。血か涙かわからない液体が頬を流れていき、口の中で土と混ざって気持ちが悪い。

 そして何処からともなく現れた男が、宗二の目の前にしゃがみ込み、その面長の顔に悪魔のような笑みを貼り付けて、覗き込むように近寄せ、


『――もう、死んでるのになあ』


 それが瞼に焼き付いて、頭の中で木霊するのが最後、毎度、そこで飛び起きるように目が醒める。

 すると決まって、ガサついた頬の、目尻からエラにかけての一筋だけが湿っていた。




 殺人事件が発覚し、看守長による尋問が終わった後、容疑者である宗二は地下牢に一人取り残された。それから、一体どれだけの時間が過ぎただろうか。宗二の体感では二週間程経ったような気がするが、地下牢には時計もなければ日光も差さないからいまいち掴めない。

 そんなある時のこと。それは宗二の精神が、魂が抜かれたように空っぽで、なのに体も頭も鉛のように重くて、もう何をすることも諦めて、ベッドで寝て、漫然と時が流れるのを待っていた時だった。牢の金属製の扉が、コンコンとノックされた。返事するために声を出すことすらしんどくて、ノックを無視していると、扉を叩く音が段々と大きくなっていき、最終的には部屋が揺れそうな程激しい音が部屋に木霊した。いい加減鬱陶しくなってきた宗二が、腹と喉の力を振り絞って「あーい」と掠れた声で返事すると、ピタリと乱暴なノックの音はやみ、続いてギーッと金属音を立てて扉が開いた。宗二はベッドに寝たまま、首と目だけを動かして音の方を見ると、そこから入ってきたのは、商品用のつなぎを着た、緑髪の恰幅のいい男だった。


「……勝?」


 そう、勝だった。彼は何故か顔に貼り付けたような笑みを湛えて、軽い足取りでこちらに向かってくる。


「やあ」

「いや、やあって……。なんでお前がここにいるんだ」


 相変わらず寝たまま、ガッサガサに掠れた声で尋ねると、彼は宗二の寝ているベッドに腰を降ろしながら、嬉しそうに答えた。


「そりゃ、君を助けに来たんだよ」

「そうか、それで、何しに来た」

「いやっ、決め台詞のつもりだったのにっ!」


 勝は一人でツッコミを入れると、一人で腹を抱えて笑う。

 なんだこいつ。暫く顔も見ていなかったから忘れていたが、これ程までに気分が高揚している奴だっただろうか。


「いやぁ、尋問の許可もらうの大変だったんだよ? 調査に協力したいってしつこくしつこく頼み続けたら、看守長もやっと折れてくれたけどさ、一回だけなら尋問良いって。でもそれまでは――」

「おい!」


 妙に浮かれて、興奮したように語る勝を、振り絞った声で一喝して現実に引き戻すと、彼は「おっと、失礼」と芝居じみた所作で一礼する。


「で、何をしに来た」

「僕は宗二くんの無実を証明しに来たんだ」

「何」


 勝は胸を張って、自信満々の表情であっさりと言った。

 大方そんなことを言い出すだろうとは思っていたため驚きはしなかったが、いざ言われても、やはり眉唾ものだ。宗二は訝しげな視線を向ける。


「信じてもらえないのはわかる。看守達は君が犯人だということに、疑いすら持ってないからね。君がやったと決めてかかられて、そういう前提で扱われ続けて、尋問にもさぞ嫌気が差している頃だと思う。でも、安心して。僕はそんなことはしない。僕は真摯に君の主張を受け止めるよ。そして君を無罪に導いてあげる」

「はぁ……」


 あれこれ身振り手振りを加えて、饒舌に語る勝に、宗二は長い溜息を付いた。胡散臭いなどという話ではない。ここまでくるとそれは詐欺師の領域だ。


「よくもまあ、そんな適当な話が出来たものだ。普通、そんな胡散臭い話乗ると思うか」


 半目でそう尋ねると、勝は相変わらず軽薄な調子でいう。


「弱ってる宗二くんなら飛びついてくれるかなって思ってたんだけどなぁ……」


 そこまで言うと、彼の纏う空気は一転、真剣なものに変わった。


「まあ、普通は乗らないだろうね。でも、今はその『普通』じゃない。それに、今の君には乗る以外の選択肢はないと思うけど?」


 宗二は無言で眉をひそめる。


「このまま何もしなかったら、宗二くんは看守殺しの罪で死刑か、それに準ずるような罰が言い渡される。しかし、何かすると言っても、宗二くんは、自力でこの状況を打開出来る策を持ち合わせてない。だからこんなところで一人、手をこまねいてるんでしょ?」


 無言で睨み付けると、勝はそれを肯定と取った。


「つまり、このままだともう詰み確定なんだ。君ももうわかってるんでしょ?」


 もちろん、わかっている。でも今更どうしようもないから、諦めていたのだ。押し黙り続ける宗二に、勝は説得を続ける。


「でも、僕の話に乗ってくれれば、一パーセントでも真犯人を暴ける可能性が生まれて、宗二くんが無罪放免になる可能性も同じだけ生まれる。このまま何もせずに、可能性ゼロで終わるよりは、余っ程良くない? だから、騙されたと思って乗ってみてよ」


 宗二は暫く天井に広がる灰色を眺めつつ、黙って考えた。

 が――


「助ける義理もないのに、なんで俺を助けようとするんだ。お前に何か得がある訳でもないだろうに」


 勝が宗二を助ける理由は幾ら考えてもわからなかった。


「得かぁ……、損得は考えてなかったなぁ……」


 そう言う勝は考えるように自分の顎を撫でると、たちまちこちらに顔を向け、何か思いついたように両眉を上げた。糸のように細い瞼の間から、灰色の瞳がこちらを捉えた。


「僕は最近の夢だった探偵ごっこが出来て嬉しい、君も命が助かるから嬉しい。いわゆるウィンウィンという奴でしょ? 得といえば得じゃない?」

「探偵ごっこ……、なんだそれ……」


 予想の斜め上の答えに思わず困惑の声が漏れる。

 そんな理由は嘘に決まっている。本当の理由は教えたくないか、もしくは教えられないか、とにかく、教えるつもりはないらしい。相変わらず、掴みどころのない男だ。真意が全く読めないから、この誘いだって罠かもしれない。だから本来はもっと警戒すべきなのだろうが……。

 ここで宗二に手を差し伸べてくれる人など、勝が最初で最後だろう。自力で解決する手段がない現状、いわばこれは最後のチャンスであって、背に腹は代えられないから……、などと言い訳を並べてみたはいいものの、


「わかった。騙されてみるよ」


 罠だとしても、彼の手を取らなければ、待ち受けるのは確実な地獄なのだから、彼の言う通り、選択肢など初めからあるようでなかったのだ。

 降参だといわんばかりに両手を挙げて言うと、勝の表情に笑顔が咲いた。


「よし、ありがとう!」


 よく澄んだ、朗らかな笑顔だった。

 こちらこそありがとう、お願いします――こちらは助けてもらう側なのだ、形だけの礼儀だとしても、それはきちんと言葉にするべきだったろう。しかし、いざそれを口にしようとした瞬間だった。宗二に警鐘を鳴らすように、頭の中にそれが思い出された。

『僕が宗二くんをここから出してあげる』『はいはーい! 任せてっ!』

 ――駿に騙された件の、悪夢のような記憶。いや、戒めと言ってもいい。

 それが脳裏を過ると、途端に、フォーティスに身を委ねることが、それこそ悪魔と契約するような、内蔵が竦む程恐ろしいものに思えてきて、恐怖心でがんじがらめにされた宗二は、結局何も言えなかった。


「どうしたの? 怯えたような顔して」


 どうやらそれが顔に出ていたらしい。勝は気遣わしげに目を丸くしている。しかし、その表情がまた駿の影に重なって、背筋を怖気が駆け上がった。


「いや……、なんでもない」


 ただ、いつまでも気後れした状態を引き摺ってはいられない。不安は拭えないが、宗二は既に、勝に騙されてみると腹を括ったのだ。宗二は一度深呼吸をして、せめて表面上だけでも落ち着いたように見せてから、改めて本題に戻る。


「で、無実を証明するって、具体的にどうするんだ」


 鉄のように固まった重い上体を起こしながら聞くと、勝は人差し指を立てて答えた。


「それはもちろん考えてあるよ。でも宗二くんに教えるのはまだ後」

「なんでだ」

「理由も後で教える。その前にやらないといけないことがあるからね」

「やること?」

「そう。じゃあ早速、単刀直入に聞くよ。正直に答えてほしい」


 宗二は姿勢を正し、深く頷く。


「本当はやった? やってない?」

「やってない」――即答した。

「その理由も、これまで他の尋問してきた職員に話したのと同じ理由?」

「ああ、そうだ」

「なるほど……」


 勝は自分の顎を指で撫でながら考え込む。そして、その体勢のまま目線だけを宗二に向けた。


「でも、流石にそれをそのまま鵜呑みにすることは出来ないね」

「は? でもさっきは俺の主張を聞いてくれるって言ったじゃねぇか!」


 声を荒げる宗二に、勝は余裕の表情を崩さずに、澄ました様子で答える。


「言ったよ。真摯に受け止めると、ね。でも、手放しに信じるとは言ってない」

「そんなの屁理屈だ」

「その通りだよ。宗二くんに提案を聞き入れてもらうために、ちょっとずるい言い方した」


 悪びれもせず認める勝に、宗二は腹が熱くなるのを感じる。


「なら結局、お前も俺がやってないことを信じてくれないんじゃねぇか。からかいに来ただけなら帰ってくれ。はぁ、フォーティスに少しでも期待した俺が馬鹿だった」


 投げやりに吐き捨てて、ベッドに再び横になろうとした時だった。


「いや、誰も信じてないとは言ってないよ」


 勝が真剣な様相で言った。その力強い声に毒気を抜かれて、戸惑った宗二は「え?」と声に出してしまった。


「僕はまだ半信半疑なんだよ。本当に宗二くんが犯人じゃないか、確信しかねてる」

「どういう……」


 信じるとか信じないとか、一見食い違ったようなことを言う勝に振り回され、感情が右往左往した宗二は訳がわからず尋ねる。


「当たり前のことだよ。だって、信じるに値する根拠がなさすぎる。なにせ僕は宗二くんという人についてあまりに知らなすぎるからね、信じるために必要な『信頼』が足りない。よく知らない人の話でも、宗二くんは無条件に信じるの?」

「……信じないな」

「でしょ? 客観的な証拠を見せてくれるなら話は別だけど、でもないんでしょ?」


 宗二は不貞腐れたような顔で頷く。


「じゃあこれで確信出来てない理由、納得してくれた?」


 それはそうか。助けてくれる確証がない故に、宗二が勝を信頼出来ていないのと同じように、彼もまた、宗二を安易には信頼出来ないのだ。宗二はムキになって言い返していた自分が恥ずかしくなって俯き、躊躇いがちにもう一度頷く。


「よかった。そういう訳で、無実を証明云々の前に、僕に君を信じさせてほしいんだ」

「信じてもらうには、俺はどうすればいいんだ?」


 そう尋ねる宗二は、素直になった子供のようだった。


「そうだね……。宗二くんのことをもっと知りたいから……、この倉庫に来てから、牢に閉じ込められてたこの一週間までの出来事、心境の変化、全部語って聞かせてよ。それで宗二くんが本当に犯人じゃないか、確かめるから」

「そんなことで、わかるのか?」

「うん、任せて!」


 宗二のほうこそ、これが本当に罠でないか、そして彼が本当に事件を解決できるか、二重に疑念を抱きながらも、そう言ってサムズアップする勝がやけに自信ありげに見え、「わかった」と、長く短い、倉庫・牢獄生活の話をすることを決心した。


 それにしても、事件当日からまだ一週間しか経っていないとは、驚きだった。



「さて、何処から話そうか」


 宗二は、軋む体に鞭を打って壁際まで移動し、冷たい壁にもたれ掛かりながら、冷え切った手で鼻頭を触る。


「俺が倉庫に来る前にあった出来事は知ってるよな?」

「うん、もう聞いてる」


 まずそれを確認すると、ベッドの上に胡座をかいている勝は、宗二と正面から顔を合わせて答える。


「そうか……。お前が知ってるかは知らないけど、大切なものを奪われるというのは、痛いとか苦しいとか、そういう言葉では表しきれない次元のことで、ただ一つ言えることは、それは本当に恐ろしいことなんだ。ふとした瞬間に母のことを思い出したら、魂を引き裂かれたような喪失感に襲われる。それはこう、なんと言うか、全身くまなく、頭から爪先まで、皮膚から骨の髄まで、円滑に生きるための大切な何かを抜き取られて、代わりに、ただ重くて、硬くて、苦しいだけの、虚空の塊とでも言うのか、何の意味もなさない、あるだけで邪魔で、行動も思考も全てを阻害するようなものを詰められたような感覚なんだ」


 説明わかりにくかっただろうな。そう思って額に手を当てて別の表現を探っていると、


「大丈夫。十分伝わってるよ」


 勝はこちらを安心させるような優しい顔で大きく頷いた。

 その見透かしたような態度に、憎悪にも近い、どろりと熱い感覚が腹の中をうごめいた。その理由を理解していながらも、宗二はそれを見て見ぬふりした。


「そうか。なら、話に戻るよ」


 ここまで、語り口があまり要領を得ないのは、もちろん感覚的な話をしているからというのもあるが、宗二が妙に緊張しているからだったりもする。自分の鼻頭を触りつつ、緊張を和らげるように一度深呼吸をしてから続けた。


「その苦しさの中だと、気力も体力も、何もかもなくなって、誇張なしに何も出来なくなる。それこそ今の俺みたいに、抜け殻みたいになっちゃうんだ。俺は、その苦しみをまともに受け止められなかった。あまりの苦しさに耐えられなかった。それを背負う勇気はぺしゃんこに潰えて、何よりも、心底怖くなった」


 世には飴と鞭問題というものが存在する。それは、人の行動原理が、飴、つまり報酬を得ることにあるのか、鞭、つまり罰を回避することにあるのか、という問題だ。

 科学的な根拠から、その結論は、人を含めて動物は、報酬を得るために行動し、そのためならばどのような苦痛だって甘んじて受け入れるとされている。しかし、どうやら倉庫に来てからの宗二だけは、その対象外だったようだ。


「俺は、その苦しみから逃れるためなら、なんだってした。死んだほうが楽になれるという確証があったなら、きっと迷わずそれを選んだ。そう思える程、大切なものを奪われることは、母の死は、二度と味わいたくない、恐怖の象徴として俺の魂に刻まれた」


 死んだほうが――その言葉に反応して、勝がこちらをキッと睨みつけた。


「だから、倉庫に来てからずっと、母の死から目を背けてきた。四六時中、少しの空白もなく他のこと、いや、思い返してみれば、案外他のことでもないか」


『宗二、逃げて……そして生きて』


「――母さんの遺した最後の願い、その中に閉じこもるように、それに固執して、それだけを考えて、そのためだけに行動してきた。そうして肝心の母の死のことは頭の端っこに追いやって、蓋をして、押さえつけいれば、苦しみを正面から味わわずに済んだ」


 だいぶ緊張は解れてきてはいたが、念のため一度呼吸を整えてから続けた。


「事件が起きたのは、そうやって日々を、崖っぷちを歩くように乗り越えていた時だった」

「看守殺人事件だね。宗二くんは事件当時、体調不良で医務室に運ばれて、そこで寝てたって言ってたね?」


 勝が力強い眼差しで確認すると、宗二は重々しく頷く。


「そうだ。だから事件のことなんて一切覚えにないんだ。看守長に叩き起こされてからの怒涛の事態には頭が追いつかなくて、翻弄されている間に気がついたら、俺は容疑者として、この牢屋に閉じ込められてた」


 宗二は地下牢を軽く見回す。


「そうやって一旦荒波が去って、やっと落ち着ける時間が出来たんだ。思考を鈍らせてた痺れみたいなものが抜けると、まず、俺はどうやって看守達に無実を証明するか、そして、それが無理ならばどうやってここから逃げるか、それを考えようとした。これまでみたいに母さん以外のことを考えていれば、精神的にも持ち堪えられると思ったから。でも、何も考えられなかった。思考が途切れるって言うのかな、考えようとしても頭が全く働かなくて、思考に空白が生まれてしまったんだ。すると、出来た空白に流れ込むように、母の死の情景が、そして、これまでフォーティスにされてきた数々の不条理が、途端に走馬灯みたいに思い出された。母を無惨に、屈辱的に殺され、信頼していたフォーティスに騙され、商品となり、身に覚えのない殺人事件の容疑を吹っかけられ、全身にアザが残るくらいボコボコに殴られ、泣き縋られ、挙げ句には地下牢に監禁される。不運、不条理――口にすれば簡単なことだけど、これが実際、自分の身に起きた場合のことを想像してみてほしいよ。そんな言葉一つで、仕方なかったと納得できるか? 不条理を許せるか?」


 宗二は当時を思い出し、怒りを露わにして激しくベッドを叩きつけた。


「――断じて否だッ! 仕方ないだと? ふざけるなッ。俺は絶対に許さないッ!」


 自分の叫び声で我に返った宗二は、熱を吐き出すように深呼吸して、沸騰していた思考を冷ますと、続きを語り出した。


「すぐに憤りはピークを迎えたよ。俺から全てを奪って、尚も苦しませ続けるフォーティスなんて全員死ねばいい。特に、俺に殺人の罪をなすりつけた奴は、今すぐ引き摺り出してこの手で殺したい。腹の底から湧き出した熱が、体の芯を伝って上っていくように、胸が焼かれて思考が煮立って、頭の血管がはち切れそうになった。素手の拳で、コンクリートの壁を何度も何度も何度も殴りつけたよ。皮膚が剥がれて血が出て、骨が露出しそうになっても殴り続けた。だけど、そんなことをしても熱はちっとも冷めなくて、次に誰かが地下牢にやってきたら、それが誰だろうと殴りつけて、死ぬまで殴り続けて、いっそ本当に殺してやろうと考えてた」


 勝は想像しているのか、目を瞑って、痛そうに自分の手を擦っていた。ちなみに、宗二の右手はまだ怪我が治っておらず、包帯が巻かれている。


「そう、初めは、初めだけは、猛烈な憤りを胸に宿してた。けれど、少し冷静になった時、すぐに気付いてしまったよ。今更フォーティスを呪ったところで、最早どうしようもないんだって。俺がやってない証拠もない。俺が信じ、俺を信じてくれる仲間もいない。一人で逃げ出す方法もない。こんな希望もクソもない状況で、どうして情熱が続こうか」


 如何に苛烈な感情も、この冷えた閉鎖空間では一過性の代物でしかなかった。


「それから、一体どれだけの時間が過ぎたのか、地下牢には時計もなければ日光も差さないからわからない。一人の職員がやってきて、看守長の尋問の時にされたのと同じような質問をしてきた。時間の経過ってのは恐ろしいもので、その時にはすっかり憤慨の熱は冷めてて、それどころか今度は反対に生きる熱も冷めてた。何もかもがどうでもよくて、例の尋問と同じ答え――『俺は寝てたからやってない』を繰り返した。それからも定期的に違う職員がやってきては、同じような質問をしてきた。同じように答えた」


 宗二の語る声色が、段々と昏く沈んでいく。


「職員達は俺が犯人であることを確信しているようだったけど、どうやら社長がいないと肝心の判決が下せないらしい。そして偶然今社長は留守だから、社長が帰ってくるまでは暫く牢獄生活が続くとも言ってた。

 地下牢にはベッドとトイレ以外に何もないから、必然的に、殆どの時間、何もやることがなかった。すると、空白を埋めるように、自然と色々なこと、いや、色々ではないか。殆どは、あの唾棄すべき奴らと母さんについてだったな。そういう、今まで意図的に避けてきたことを考え始めるようになった」

 思考は空に浮かぶ雲のように。浮かんでは流れ、形を変え、輪郭すら危うくなり、また流れて消える。結論の出ない事柄が、絶え間なく頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていた。

「ふと、自分がおぞましいことを考えていることに気が付く瞬間が何度かあったんだ。閉鎖的な空間で、長いこと一人でいた所為かな、思考が極端に偏るようになってきて、自分の精神がいよいよ狂気に染まりつつあるんだなって自覚したよ」


 宗二はそこで一度切り、目を瞑った。


「そして多分、あれは昨日だったと思う。金髪の看守がここにやってきたんだ」

「それは昨日で合ってるよ」

「そうか」

「あれは……」と当時を思い出そうとした宗二の意識は、記憶の沼に沈んでいった。




「あんたは、フォーティスに対して恨みはあるんだな……」


 狭い部屋の、ベッドの置かれた角から見て対角に立っている、亮の恋人であったという例の金髪の看守が確認する。感情を押し殺した、重い声だった。

 精根尽き果てた宗二はベッドに仰向けで寝て、天井をぼーっと眺めたまま「ああ」と、唸るように答えた。起き上がるのも、返答を考えるのも、口を動かすのも面倒だった。


「なのに……ッ、亮を殺してないって……言うんだな」

「……ああ」

「今、白状すれば、まだ罰は軽くなるかもしれないぞ……。それでも、認めないんだな」

「……ああ」


 声に孕む震えから、彼女が相当に怒りを我慢しているのが伝わった。それも無理からぬことだろう。何故なら、彼女は宗二が恋人の敵だと勘違いをしているのだから。今も、彼女が宗二から距離を取っているのは、怒りが爆発しても襲い掛からないようにしているからだと思う。

 この質問が最後で尋問は終了、その後すぐに職員は退室することが通例だった。少なくとも今までの職員は皆そうだった。だが、金髪の看守は部屋の隅に立ったまま、黙り込んでしまった。体感では二十分程だろうか、そうして沈黙に包まれていると、不意に看守が口を開いた。


「……あんた、本当に気持ち悪い」


 その声には、単なる嫌悪感や軽蔑を超えた、殺意のような、ゾッとする程昏い感情が乗っていた。

 宗二は自ずと手がピクッと動いた。どれだけ生きる気力がなくとも、体は、向けられた明確な敵意に警戒して、勝手に心臓を跳ねさせた。

 わからない。早かれ遅かれ、俺は殺人の罪を着せられて、罰として殺される。今を生き延びたところで、希望も未来もない。そうだ、生きる意味など何処にもない。なのに、何故こうも、体は独りでに『生きたい』と懇願しているのか。生にしがみつくのか。


「わからない」


 宗二は枷が掛けられたように重い上体を、おもむろに起こしながら呟いた。起き上がりながら見た彼女は、憤怒の形相でこちらを睨みつけていた。


「その顔だよ。何回見ても本当に気持ち悪いッ」


 彼女は忌々しげに吐き捨てる。その顔、と言われても何のことかわからず、宗二は首を傾げた。すると、彼女は信じられないとばかりにその鋭い目を剥き、グッと堪えるように俯いた。

 だが――


「あんた……、あんた……」と徐々に激しくなっていく声。「あんた、あんたッ、あんたああぁぁッ!!」


 叫びながら、勢い良く顔を上げてこちらを睨む姿は、内から湧き出してくる感情が、押さえきれずに溢れ出してくるようだった。


「亮を殺しておきながらッ! なんでッ、なんでそんなに被害者ぶってられるんだ! その、俺はこの世で一番の不幸者ですみたいな顔ッ。俺は何も悪くなくて、巻き込まれただけの哀れな被害者なんですみたいな顔ッ! 気色悪いなんて話じゃない……ッ」

「いや、みたいも何も、実際お前の言う通り俺は何も――」

「黙れ――ッ!!!」


 宗二のいけしゃあしゃあとした言い分は、耳を劈いた看守の悲鳴のような叫び声で中断された。看守は、突然の大声にビクッと肩を跳ねさせた宗二に、怨嗟に燃える目を向ける。


「いい加減認めろッ、亮を殺したんだってッ! 人殺しのくせに被害者面すんなッ!! なんで殺したッ! 亮を殺したのも、あんたの両親をフォーティスが殺したことへの復讐だとでも言うつもり? っざけんなッ! 亮とあんたの親が死んだことに何の関係があるってんだ! あんたの親が死んだのはあんたの問題だろッ! 勝手にこっちの所為にすんなッ! 辛い立場にあるなら、なんでもしていいって訳? 大切な人が殺される悲しさも悔しさも、殺した奴への――当然、あんたのことだよ――怒りも憎しみも知ってる。わかるよ、苦しいよな。その苦しみを、殺した奴に味わわせたいよな。そいつを殺したくて堪らないよなッ」


 看守の殺意がドッと膨れ上がった気がした。宗二は一回瞬きすると、昏く濁った瞳で再び彼女を見つめる。


「実際、あんたも腹の底では親を殺したフォーティスが憎くて憎くて仕方がないんだろ? そのくせして、殺したいとは思いませんって、なんだそれッ。ふざけてんのか?」


 要領を得ない、酷く矛盾した内容は、きっとそのまま彼女の内心の乱れようを映し出している。それを聞いて、宗二も内心を乱していた。


「ちぐはぐなんだよあんたは全部! あああ、もう、ムカつくッ! ほんッとうに気持ち悪い――ッ! 社長帰ってくるまで待たないと本当にダメなの? 今すぐ殺したいんだけどッ」


 彼女は堪らないとばかりに、感情をぶつけるように繰り返し床を踏みつけた。金髪のポニーテールも、それこそ走る馬の尻尾のように、上下に波打っていた。


「じゃあ、やれば?」


 ふと、宗二がそう言った。その瞬間、世界から音が消えた。ただ一つの音を除いては。

 ヒュッ、と何かが風を切る音が耳のすぐ横を通った。恐る恐る見ると、宗二の顔のすぐ後ろ、コンクリートの壁には刃渡り十センチもない小さなナイフが、壁と垂直に突き刺さっていた。

 それが、看守の投げたものであると、そして彼女の塩梅一つでこのナイフが刺さる場所が自分の顔になって、本当に殺されかねなかったと理解した途端、背筋を怖気が駆け上がった。

 ガクガクと首を回して看守の方を見直すと、彼女はナイフを投げ終えた体勢で、息を荒げていた。こちらを捉えて離さないその目は、彼女が本気であると雄弁に語っていた。


「――――」


 その目を見て、宗二は自分の考えを改めた。ここまでは、どうせ社長が帰って来れば死罪か、それに近い罰を宣告されるのだ。自分で死ぬのも億劫だし、今この女に殺されても別にいいか、と自棄になっていた。でも、やっぱり駄目だ。

 この時、彼女の殺意を肌で感じて、『面白いことを思い付いた』と思った。後から思えば、こんな奇異なことを思い付いたのは、きっと長い間一人で部屋に籠もって、頭がおかしくなっていたからに違いない。


「なあ、金髪……。なんで、俺の母さんは殺されなきゃいけなかったんだ……?」


 宗二は俯いて尋ねる。その声は小刻みに、痛々しく震えていた。


「犯されそうになって抵抗したら、殺されても仕方ないのか? サピエンスとしてこの世に生まれたら、殺されても仕方ないのか? それは、人を殺していい理由になるのか?」


 ゴクリと固唾を呑んだのは、どちらだろうか。


「なんで、父さんは殺されなきゃいけなかった? なんで、俺はこんな目に合わなきゃいけないんだ? なんで、蟻地獄に落ちたみたいに、もがいてももがいても更に悪化していくんだ?」


 宗二は顔を上げて、看守の顔を覗き込む。突然の質問の連続に、看守は戸惑いと苛立ちが入り混じっているのか、眉をひそめてこちらを見ていた。


「――いつになったら、この地獄は終わるんだ?」

「何言ってんの、急に」


 我慢できなかったのか、遂に看守が問うた、その瞬間だった。


「黙れ――ッ!!!」


 宗二の凄まじい叫び声が狭い部屋に木霊した。狂人のような急激な豹変に、看守は咄嗟に身構えた。


「なんで俺から奪うんだッ! なんで俺は全てを奪われて、裏切られて、もう懲り懲りなのに、やってもいない殺人を押し付けられなきゃいけないッ! 寄って集って俺を虐げるなッ! 何も持ってない俺から、これ以上何も奪うなッ! 俺が、俺達が、お前達に何をしたって言うんだ! 何の謂れがあって俺は……ッ!」


 そこで一度言葉に詰まり、宗二は俯いて唇を噛み締めた。そして再び顔を上げ、


「答えてくれよッ! 教えてくれよッ!!」


 そう叫んで問いかけたのと同時だった。


「――知らないよそんなの!」


 金髪も叫んだ。睨んでくるその鋭い目は複雑な色に染まっていた。宗二は彼女の反応を見ると、もうそれ以上は堪えきれずに、溢れ出すように思わず「ハハハッ!」と笑った。


「何を笑ってんだッ!」

「いいや、何でもない……、気にするな」


 怒りを露わにする看守に、宗二は笑いながらはぐらかす。


「説明しろッ。こんなことして、何がしたいッ!」

「ええ? 何、急に? さっきまでは俺の言い分全く聞かなかったくせにぃ……ぷぷっ」


 口元を隠してからかう宗二に、看守は大きく舌打ちをする。

 そろそろネタバラシか、と宗二は一旦笑うのをやめ、一度咳払いした。


「単に、俺の胸の底に溜まって、吐き出しても押さえ込んでも、またぼこぼこと湧いてくる、ヘドロみたいな思いを吐き出しただけだ。他意はない……というのは流石に嘘か。いや、思いも疑問も本物だよ? そこに偽りはない。でも、他意はあった」

「……その他意って、何だ」


 力強く語ると、気が削がれたのか、看守の熱もある程度は治まったようで、硬い声で聞き返す。


「一番大切な人を殺された上に、陳腐な演技に騙されて、謂れのない罪を被せられて、訳のわからないことを糾弾されて、嘆かれて罵声を浴びせられて、そのくせこっちの言うことは何も聞き入れて貰えない。何処かで聞いたことあるような話だなぁ」


 何を言わんとしているのか伝わったのだろう、看守は押し黙った。


「ようやくこれでお前も、俺の気持ちの、百分の一くらいなら味わえただろ? どうだ。どんな気分だ、今」


 看守は悔しそうに歯噛みして、宗二から目を逸らす。


「最悪の、気分だ……」

「ハッハッ! ざまあみろッ!! ハハッハハハハ――ッ!!」


 宗二はどっと沸き起こるように爆笑する。

 そう、看守の支離滅裂な嘆き文句を聞いて、宗二も内心を乱していた。図星を指されて怯んだ訳でも、自分と近い境遇に心を痛めた訳でもない。

 散々奪ってきたフォーティスのくせに、一丁前に、並の人間のように悩んでいるのが、そして何より、こちらの、奪われる側の惨めさや苦しさをわかったつもりになっているのが、忌々しくて忌々しくて堪らなかったのだ。

 看守は押し黙っていた。返す言葉もなくて無様に俯く彼女を馬鹿にすると、心が洗われるように爽快で、宗二は馬鹿みたいに大声で笑い続けた。

 まるで鏡に映った自分を、無様だと嘲笑っているような気分だった。


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