さようなら
玄関に居た4人を見て由紀さんが声を張り上げる。
「何しに来たんですか!帰ってください!」
…こんな由紀さん初めて見た。いつもは優しくて笑顔の由紀さんが余裕なく必死に叫んでいる。…やっぱり俺のためだったりするのだろうか。そうだとしたら本当に申し訳ない。
「…」
優子さんは何も言わない。キョロキョロして何かを探しているようにも見える。一体何を…っ!優子さんと目が合った。その目はあの頃の優しさに満ちた目ではなく、物を見るような無機質な目だった。
「あっ、見つけた」
優子さんがそう呟いた。その瞬間、俺は背中に冷や汗を大量に出した。本能が訴えかける。この人は危険だと。
「緋月君ー!そんなとこに居てないでこっちに来て?」
優子さんが俺を呼んでいる。顔は笑っているが目が笑っていない。
それを聞いて裕二さんが俺の前に立った。
「…緋月君。絶対に行っちゃダメだよ」
「は、はい」
俺の体は意志とは関係なく震えている。なんだ?なんなんだ?明らかに体調がおかしい。寒くないのに震えが止まらない。
「緋月?だ、大丈夫?」
柚木が俺のことを心配そうに見つめてくる。
「…だ、大丈夫。大丈夫だ」
俺は何とかそう言葉を絞り出す。
「総司さん。あなた今緋月君がどんな状態か分かってますか?」
裕二さんが父さんに静かにそう言った。父さんはここに来てから1度も言葉を発していない。
「…緋月はあの家が嫌になって出て行ったんだ。きっと苦しんでる」
「…えぇ、緋月君は今とても苦しんでいます。…それだけならどれ程良かったでしょうね」
裕二さんが冷たい声でそう言った。裕二さんの言葉を聞いて今まで俯いていた父さんが顔を勢いよく上げた。
「え?ど、どういう…ことですか?」
その声には困惑が混じっていた。
「…緋月君は今うつ病にかかっています」
「…は?うつ…病?そん…な…。俺のせいだ…俺が緋月に全てを任せていたから…」
父さんは1人で何かブツブツ言っている。そんな父さんを尻目に優子さんが口を開く。
「うつ病?なんですかそれ?どうせちょっと体調が悪いとかそんな程度なんでしょう?それなら私がしっかりと世話をするので早く緋月君を返してください」
相変わらず優子さんは光の点っていない目で俺を見ている。怖い。素直にそう思った。
優子さんを見る姉妹の顔はどこか恐怖すら抱いているように見える。
「お、お母…さん。う、うつ、病はそんな簡単な…病気じゃ…」
「杏寿菜。大丈夫よ。お母さんが全部どうにかするから」
杏寿菜さんが何かを言おうとしていたが優子さんがその言葉を遮る。
「お、お母さん…うつ病はちゃんとした病気なんだよ。だ、だから…その…」
「雅。安心して。お母さんが緋月君を治してあげるから」
雅さんも何か言おうとしていたが優子さんがそれを遮る。
「緋月君ー。早く出てきてー?」
優子さんが抑揚のない声で俺を呼ぶ。息が正常に出来ない。吸っているのか吐いているのか分からなくなる。息が、息が出来ない。
「はぁ!はぁ!はぁ!はぁ!」
「ひ、緋月?緋月!?」
誰かが耳元で俺の名前を呼んでいるがそんなことを気にしている余裕はなかった。まずい。いきができない。いきができない。いきができない。
「っ!過呼吸だ!紙袋かビニール袋は無いか?!息をゆっくり吸わせるんだ!」
「無いよ!どうしよう…」
くるしい。くるしい。くるしい。くるしい。
「…あぁもう!ごめん緋月!」
「っ!」
暗くなっていた視界がぼんやりと明かりを取り戻していく。そして目の前がクリアになっていく。クリアになった視界を埋めつくしていたのは柚木の顔だった。なんだか唇に柔らかい感覚がある。
なんだ?何が起きている?俺は今柚木とキスしているのか?
だんだんと思考も明快になっていく。そして落ち着いた俺は勢いよく柚木の肩を掴んで引き剥がした。
「っ!ゆ、柚木?!」
「…よかった。緋月っ!」
困惑している俺をよそに柚木は泣きながら抱きついてきた。…過呼吸になった俺を柚木が助けてくれたのか。俺は恐る恐る柚木の体を抱きしめた。
「…ありがとう」
柚木の体は柔らかくふんわりとしたいい匂いがした。それだけで気分が落ち着く。
「…あら」
そんな俺たちをみて由紀さんは顔を赤くしていた。裕二さんはどこか気まずそうな顔をしていた。それを見た途端、急に恥ずかしくなってしまった。
「…もういいかしら?」
でも優子さんは容赦がなかった。優子さんは俺の方へと近づいてくる。収まっていた過呼吸がまた再発しそうになる。
「もういい加減にしてくれ!」
だがそんな優子さんを止めたのは父さんだった。
「…あなた?どういうつもり?」
優子さんは俺に向けていた目を父さんに向けた。
「緋月は俺の大切な子供なんだ!それを物でも扱うように…今更俺は緋月の父親だ、なんて言えない。でも…それでもこれ以上緋月を苦しませるのはやめてくれ…頼むから…」
父さんは涙を流しながらそう言っていた。
「父さん…」
父さんの姿を見て思うところが無いわけじゃない。…でももうあの家には帰りたくない。
「あら、そんなこと考えてないわよ?緋月君は私たちの大切な家族なんですから。ほら緋月君。帰るわよ」
ダメだった。父さんでも優子さんを止められなかった。きっと最初から俺がこうなることは決まってたんだ。抗うだけ無駄だったんだ。
「…もうやめようよお母さん」
「…やめ…て。お母…さん」
姉妹が優子さんにそう声をかけた。…今更そんなことを言ったってどうなるんだ?もうこの人は止まらない。きっと止まらない。
「どう…して?どうしてあなたたちまで私たちのことをそんな目で見るの?」
姉妹の目は母を恐れていた。
「ね、ねぇ…」
優子さんが2人に1歩近づいた。それに伴い2人も1歩、優子さんから距離をとる。
「や、やめてよ…お母さんをそんな目で見ないで?」
「…今のお母さん。私は嫌い。嫌いだし関わりたくもない」
「…わた、し…も。お母さん…嫌い」
姉妹がそう言う。
「なん…で?なんでそんなこと言うの?」
彼女にとって世界で1番大切な宝物の姉妹に嫌われるのは何よりも耐えられないことなのだ。
明らかに優子さんに余裕がなくなっていく。どうしたんだ?あの人ならそんな言葉気にするはずもないだろう。
「お母さんがそんな人だとは思わなかった。…正直家族だとも思いたくない」
「…人…を…思いやることが出来ない…お母さんなんて…要らない」
それをあんたらが言うのか。そう思ったがどうやら優子さんはまいってしまっているようだ。
「うそ…よね?私…2人のお母さんよね?ね、ねぇ?総司さん?」
「…優子。頼む。俺と離婚してくれ」
父さんが優子さんの目を見てそう言った。
「……………」
しばらくの沈黙が続いた。
「…あぁもう。あぁもう!!!なんなの?!なんなのよあんたたち!どうして私の思い通りいかないの!?ああウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイウザイ!!!」
その場に居た全員の瞳に恐怖の感情が宿る。優子さんの全てを憎んでいるような目に恐怖している。
「死ねばいいんだ!お前ら全員死ねばいいんだ!!死ね!死ね!」
そう言いながら優子さんは父さんに殴りかかった。父さんはいきなりのことで反応出来ず殴られて倒れてしまう。そのまま優子さんが馬乗りになり何度も何度も父さんの顔面を殴りつける。
「っ!やめなさい!」
裕二さんがそう叫びながら優子さんを羽交い締めにする。
「離せ!殺してやる!お前ら全員殺してやる!!」
そこにいるのはただの醜い動物だった。俺に優しくしてくれていた優子さんではなかった。
数分後、警察がやってきた。どうやら由紀さんが通報したようだ。
優子さんは警察に連行された。パトカーに乗る直前に俺に向かって
「全部お前のせいだ!お前が居たせいで家族は壊れたんだ!お前が居なければ…お前さえ居なければ!!死ね!死んで詫びろ!」
と言った。…あぁやっぱり。やっぱり俺が居てもいいことなんてひとつもないんだ。実際そうだっただろ?今の現状は俺が作り出したんだ。もういいだろ。終わりにしよう。
「違います」
そんな声が聞こえてきた。
「緋月に悪いところなんてひとつもありません。悪いのは家のことを全て任せた父親。過度にストレスを与え続けた姉妹。そしてこんな事件を起こすような母親。あなた達です。緋月は何も悪くない。もう緋月に関わらないでください!」
「ああああ!!殺してやる!絶対に殺してやる!」
優子さんは警察に無理やり車に乗せられ連行された。由紀さんと裕二さんは事情聴取の為、一緒について行った。
「…緋月」
俺に父さんが話しかけてきた。父さんの顔は膨れ上がってところどころ内出血している。とても痛々しい。
「…何」
「…もう一度…やり直せないか?」
「…」
俺はもう柚木を悲しませないと誓った。だから
「…ごめん父さん。俺、もうあの家には戻らないよ」
「…」
父さんは静かに涙を流している。
「ね、ねぇあん…緋月…」
「ひ、ひづ…き…君」
今度は姉妹が話しかけてきた。正直この2人を前にすると優子さんと対峙しているような感覚に陥ってしまうためできるだけ話したくない。
「もう…戻ってこないの?」
「ち、違う…よ。お姉ちゃん…」
違う?何が?
「…ごめんなさい!」
「ごめん…なさい…」
2人がいきなり目の前で頭を下げた。俺は当然のことで困惑してしまう。なんなんだ?
「私たち、前の父親に裏切られて…それで男性不信になってて…それであんな態度をとってしまったの。本当にごめんなさい」
「ごめん…なさい」
「…」
今この2人に謝られても何も靡かなかった。…家族ってこんなもんなのか?じゃあ俺が今まで必死になって守ろうとしてきたものって一体…なんだったんだ?
「…緋月?」
柚木が心配そうな顔をして俺を見ている。
「…大丈夫だよ」
俺は柚木に一言そう言った。
「…俺はもうあなたたちに関わるつもりはありません。何を言われてもそれは変わることは無いのでもう俺に関わらないでください。俺からはそれだけです」
「あっ…そう、よね」
「…」
話が終わると3人は帰って行った。俺には分かる。もうあの家族は完全に壊れてしまっている。もう治ることはない。きっとあの3人も上手くいくことは無いだろう。俺は3人の姿が見えなくなるまで背中を見つめていた。
「緋月…」
「…ごめん。もう大丈夫だから」
俺は目尻から流れる一筋の涙を指で拭った。
「…私たちは…家族だよね?」
柚木が不安そうにこちらを見つめてくる。正直もう家族だなんだと言うのはうんざりだ。
「…分からない」
「…」
でも柚木とその家族が俺にとって大切だと言うことは分かる。
「でも柚木たちは俺にとって本当に大切な人達だよ」
「っ!うん…うん!私も緋月が大切!本当に…大切」
柚木が遠慮がちに俺の手を握ってくる。俺もゆっくりと握り返す。
「…家の中に入ろっか」
「…そうだな」
俺たちは手を繋ぎながら家に入った。
さようなら。俺の家族。
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