十記_彼の真意

 幾分が経ったのだろうか。暗闇の中でキリキリという音が響いた。それが現実から生じるものではないことは本能的にわかった。その中で、桃色で細長い何かが真っ直ぐに伸びている。

 糸だった。繊維が張り、限界を迎えた外側から一本ずつ切れている。俺はただそれを観測していた。それは一定間隔で裁たれ続け、あっという間に元の半分の細さになる。

 それが切れたとき、意識がなくなるのはすぐにわかった。もしかしたら、この糸は死までのカウントダウンなのかもしれない。 

 すると、どこからともなく俺のこれまでが映像として映し出された。眼前でそれは目まぐるしく変化する。部分的に覚えている四、五歳のものから鮮明に思い出せる最近の記憶まで。

 見ていると、所々昔の記憶で解像度が高いものがあった。

 小学二年の頃、先生に言われて歩夢の病室に連絡帳を届けに行った初日の記憶。

 この頃の俺は両親が交通事故で亡くなり、親戚に親権を巡ってたらい回しにされたことがまだ尾を引いており、人付き合いが苦手だった。歩夢の世話係という人物が会話の補助をしてくれたはずだ。其れでも辿々たどたどしく、人の顔色を伺いながら話す俺を急かすことなく、優しく相槌を打ってくれた。

 小学四年、歩夢の病状がよくなって学校に来れるようになった日の記憶。

 彼女は四年間学校に来ていなかった。四年生も始まってから二ヶ月が過ぎており、グループはある程度固まり始めていた。其れにも関わらず、彼女は一日でさも当然のようにクラスに溶け込んでいた。

 同年、歩夢と海に行った時の記憶。

『うみだーー!』とはしゃぎ、堤防の上で潮風にあたりながらはにかむ笑顔を見せる彼女の顔が思い出される。

 皆、俺のかけがいのない親友ともだちの——二度と会うことのできないその人との輝かしい記憶だ。

 逆に映像自体が焼かれ、ほぼ真っ黒な記憶もあった。

 歩夢が死んだ時から葬式、その後三ヶ月の記憶である。写真が部分的に焦がされたような感じだ。わずかに見えるところもあるが、それが何なのか判別が効かない。

 …あいつばっかりじゃないか。歩夢大好きかよ、俺

 そんな言葉が口からこぼれた。いつの間にか頬を涙が伝っていた。歩夢のことはどれだけ考えないようにしていても、ふとした時に考えていた。彼女が今居たら、何をしているだろうか、と。その度に胸が締め付けられ、「前に進まないと」と想像のイフ(if)を否定した。

 こんなの友達の範疇じゃない、もはや「恋慕」だ。そう思った時、彼女に抱く感情にこれまで抱いていた違和感がすんと消え、理解する。俺が彼女に抱いていたのは友情でもあり、恋慕でもあったのだと。死地にして分かることもあるというが、これがそれなのかもしれない。でも、それなら——

「歩夢が生きてるうちに知りたかったなぁ」

 そんなどうしようもない後悔が湧いた。顔が歪み、手で拭っても拭っても拭いきれないほどの滂沱の涙が頬を伝った。多分、これは俺の深層心理には随分前から存在していたのだ。今まで「生きたがっている人を生かすこと」なんて大層な理由を付けて努力してはきたが、実際のところ「大切な人を理不尽に失う」という体験を他者にさせたくなかっただけだったのだ。

 仮に歩夢が死んでいなければ、俺はいつか自身の気持ちに気づき、告白の一つもできたのかもしれない。だから、人を生かすことに固執しているのだ。

 そんな矮小なる我儘があんな大層な夢になっていたらしい。俺は自身の欲を再認識して、馬鹿だなあ…と鼻を鳴らす。今の自分の表情は分からないが、おそらく泣き笑いしていることだろう。


 「さて、どうしようか」

 激しい感情の流動が落ち着いた時には意識、もしくは命を繋ぐ糸はさらに半分が切れていた。

 相手は三体の薔薇顔の化け物。膂力は人のそれを遥かに凌ぐ。対して俺は、右半身を負傷して使い物にならない。

 …逃走は絶望的だな。ってか、そもそもここからどうやって出るんだ?

 今更ながら、自身の身体が謎の空間を浮遊していることを認識する。手足は自由に動く。しかし、足の踏み場もなければ、何処かに掴めるような所がある訳でもない。あの糸と、俺だけがこの空間に存在していた。いや、違う。半ば直感に惹かれるようにして空間に目を凝らす。すると遥か遠くに所々星のような光が瞬いているのが分かる。

 直感が与えた泡沫の期待は文字通り「泡」となって崩れ去り、俺は俯いた。気持ちばかりが先走り、有効な策を何一つ打ち出せない。それが焦りとなって思考を蝕む。

 そんな時だった。あの遥か遠くに見えた星とも、光とも言えない其れの一つが大きくなったような気がした。

 そして、それは確信に変わる。時を経る毎に大きくなるそれは空間を一足飛びして、俺の眼前で止まった。瞬間、其れは眩い光を放った。段々と強まる光量に耐え切れなくなった俺は目を瞑り、光源から目を逸らした。

 光の変化が終わったであろうことを瞼の上から感知し、恐る恐る眼を開く。

 目の前にあったのは背の高い女性のシルエットだった。というのも、目先の其れは淡い光を放っており、全身は黄みがかった白一面。女性だと判断できたのは体の一部に其れらしい影が入っていたからだった。

 『あなたは…其れほどまでに…。いいでしょう』

 勝手に納得が行ったような言葉を放ち、その光は再度飛び立った。そして、あっという間に高度を上げ、その刹那。天上の光に差し掛かった光が黒で染まる空間を白一面に染め上げた。またも訪れた眼をつんざくような光の嵐に俺は眼前を手で覆った。

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