九記_焦燥と暗転

 買い物袋を食材ごと化け物の眼前に投げつけ、その間に化け物の股下を潜り抜ける。自分の瞬発的行動に驚きつつもすぐさま体勢を立て直し、駆け出す。ひたすらに走りながら、頭で対策を思案する。

 …とりあえず、撒くしかない

 脳内に周辺の地図を展開する。この辺は歩夢と業平と隠れん坊を数え切れないほどやったせいで、人一人が横になってギリギリ通れる路地まで覚えている。感慨が身を襲ったが、思考を今に引き戻し逃走ルートを選定する。

 …だけどそのあとは

 この状況で頼りになりそうなのは警察だ。しかし、近所の交番は夜間パトロールに出ているはずだし、仮に通報で本庁に連絡が取れたとしても時間的齟齬が生じる。だが、交番に向かう以外の選択肢がなかった。

 仮に撒いて家に帰ったとしても、アスファルトを砕くほどの高所から降ってきても無傷な彼らにとってドアなど意味をなさない。それに深夜逃げ続けるにしても、見つかったら一巻の終わりだ。見つかっても対応の効きそうな場所、そう考えると選択肢は交番だけに限定される。

 …交番に立て籠もって、通報

 一つの解を頭に導き出した俺は思考を止め、逃げることだけに集中する。

 …この次が右。その後、二つ先の路地を右。その次は曲がってすぐ見える角を左

 走りながら、進行経路を反芻する。多少大回りにはあるが、複数回の路地の経由で拡散させ見失わせ、一秒でも多く時間を稼ぐ必要があった。

 …次は大通りに一度出て、向かいの小道

 しかし、それまでだった。すでに大通りの方に巨大な化け物はいた。ほんの逡巡だった。コンマと呼ばれる僅かな間、俺は驚愕によって固まった。気づいた時には右腕前腕を掴まれ、宙吊りの状態になっていた。恐るべき速さだった。

 …あの巨体でなんていう動きをするんだ

 心のうちで毒づくが、それも次第に大きくなる右腕の痛みで掻き消されていく。身長三メートル近い化け物の腕に吊るされた俺は地から足が浮いていた。どれだけもがいても爪先すらかすらない。痛みを堪えるために奥歯と瞼にぎゅうと力が入る。


 そうし続けてどれだけ経っただろうか。激しい痛みが急に引き始めた。いや、違う。腕が麻痺し始めたのだ。身体的には深刻な状態だが、痛みが軽減されたおかげか多少の余裕が生まれる。

 「イトシイシト」

 「イトシイシト、イトシイシト」

 怪物の声に呼応するように重い瞼を引き上げる。わずかに上がってできた隙間からうっすらと辺りが視認できた。全体としては真っ暗だが、所々青白い明かりが差している。その時、ポツンと何処からか水音が反響した。俺は痛みに耐えている間に大きな空間に連れて来られたらしかった。

「あんま雑に扱うんじゃねえよ、デクの棒がよう…」

 その声に異形が反応して、体の向きを変える。それと時を同じくして声の主が目に入った。他二体に比べて明らかに流暢な日本語。それが誘拐行為の主犯格であることを思わせる。それに身振り手振りも人間味に溢れていた。しかし、それもまた異形なのは間違いなかった。顔のあたりには薔薇を思わせる花弁の輪郭、それに胃のあたりが恐ろしく細く見える。

 「あーあーあー。これ右腕だいぶ効ちゃってんじゃないの。これだから、急造品は…。…ったく、降ろせ、降ろせ。死んじまうだろうが」

 すると捕縛していた異形が急に手を放した。落下に対して受け身とるべく脳から指令を送った。しかし、同じ姿勢を長くとっていたせいか、体はぴくりとも反応せず右側面に強い衝撃を受ける。

 …やばい、呼吸が…。深く、深く吸わないと

 肺に何らかの影響があったのか、呼吸が浅く不規則になる。ただでさえ、ぼんやりとしていた視界は痛みから生じる涙によって滲む。さらに落下時、口内を噛んでしまったようで血の気が口内に充満していくのを感じた。

 「お前はっ…ハァ。言っても分からんだろうからいいや。君、生きてるか」

 その声と共に主犯格の化け物が手で俺の頬を軽く叩く。真冬の鉄のような冷ややかさが頬に伝わる。

 「うぅ…」

 「生きてるな。よし」

 予想外の冷たさに息を漏らしてしまった。それを生存の意として受け取ったらしい。

 「持って帰るぞ。///、/////、/////………」

 意識が限界を迎えたのか、耳が急激に遠くなる。瞼が次第に重くなり、それに耐えきれなくなった俺の視界は暗転した。

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