八記_恐怖の侵食

 …なんで、どうして

 後ろから鈍い足音が迫る。恐怖と焦りで心臓が高鳴る。

 …学校に行って、帰ってきて、診療所に行って。スーパーに寄って。あとは家に帰って寝るだけだったのに

 両腕を必死に振って走る。唾を飲み込む音が脳まで響く。

 後ろに首を振ると、あの人ならざる人の形をした異形が目に入った。

 ことはほんの少し前に遡る。


  ——同日、二十二時三十二分

 僕はいつものように黒岩家が曲がり角に差し掛かるのを待って、それからと反対方向に歩き始めた。その時「冷蔵庫が空であること」を思い出したため、最寄りの駅にある二十四時間営業のスーパー方面に向かうことに決めた。

 夕食は診療所に行く前にコンビニで済ませたので、欲しいのは明日以降の食材だ。

 …とりあえず、人参、じゃがいも、キャベツ、玉ねぎ。あとモヤシ、これは絶対。コスパの塊だからな。この辺の野菜と、切り落としの肉と卵があれば…そういえば、胡麻油切れそうだったっけ。魚は…今日はいいか

 歩きながら、幅広く使える食材をピックする。まあ、あとは品の値段だ。もちろん、安いものが優先である。明日の朝は野菜炒め、卵焼き、味噌汁、ご飯と決めているとスーパーに差し掛かった。

 

 「ありがとうござました〜」

 女性店員のうわづった声に見送られてスーパーを後にした。キャベツは買わなかった。コスパで見ると悪くはないのだが、重いものを持ち帰ると思うと気が滅入ったのだ。よって、明日はキャベツ抜き、もやし多めの野菜炒めである。

 …終わったっっ

 そう考えながら腕を天に上げて伸びをする。本当なら、もう粘りして勉強したいところであるが、日中の体調もある。大事をとって寝た方がいい。今から帰って、風呂に入り…おそらく日を跨ぐ前には床に入れるはずだ。

 キャベツを買わなかったおかげで四割ほど余裕のあるエコバックを提げて、帰路についた。

 一日のタスクの大半が終わったからか、張り詰めていた気が弛緩する。いつもこの時間ときは心地が良い。明日になれば、またやることも増えるだろうがそれはそれだ。なんで遊ぶ時間を使ってまでこんなことをやっているのかと逃げ出したくなる時もあるが、そういう時はいつも「目標」が助けてくれる。

 …生きたがっている人を救う、あんな惨めな思いはさせない

 それが脳裏で木霊する。目標があるうちは頑張れる。

 しかし。いや、だからだろうか。周囲が明らかに異質な雰囲気を放っていることに全く気が付かなかった。

 本能的それに気づくと共に辺りの状況、情報を意識的に収集し始める。

 …ダン、…ダン、ダンダン

 そんな鈍重な音が空間を反響していた。時を追うごとに音と音の間が詰まる。明らかにこちらに向かってきていた。

 不気味に感じた俺はそれから逃げるようにして歩速を上げる。

 刹那、強い衝撃が地面を伝わった。その振動の中心たる場所に目をやる。アスファルトの亀裂の中心、そこに足首まであるフード付きのコートに身を包んだ長身の人の姿があった。しかし、項垂れていて顔はよく見えない。小道に設置されていた街灯が逆光となり、それを一層強めていた。

 …明らかに人じゃない

 直感した。夢想的ではあるけれど、人が発する衝撃でアスファルトが砕け散るなどという芸当が出来ようはずもない。それにそのヒビの広がり方からするに空中からほぼ垂直にのだ。

 俺は後ずさった。触らぬ神に祟りなし、だ。


 トン…


 その時、背中に何が触れた。それはとても冷たくて——まるで金属のようだった。しかし、地に落ちる影は人の形だ。恐る恐る見上げ、僕は認識した。その人は顔に薔薇の花を咲かせていた。比喩ではない。顔の前面が一輪の薔薇で覆われているのだ。花が顔にめり込むように咲き、その下からは顔全体に根が張られているような筋がいくつも隆起していた。


 衝撃、戦慄、焦燥。


 同時に感情が湧き起こり、俺は硬直を余儀なくされた。

 瞬間、薔薇の花の少し下にある所が歪み、音を発した。


 「イトシイヒト。…ミツケタ」


 その歪な声に心臓が跳ねた。明らかな危機がそこにあった。

 …ここにいるのはやばい

 逃走本能が発揮され、気づいた時には逆方向に全力疾走していた。しかし、その方にもヤツはいる。先ほど空から降ってきた方だ。

 …どうする

 眼前の異形はノロノロと体を揺らしながら、俺に手を伸ばしてくる。しかしその速度は尋常ではない。ぬるりと動いて見えるというだけだ。

 捕縛、もしくは殺害。

 その選択肢が脳裏に浮かぶ。ただでは済まないことだけは理解できた。異形に迫ったその瞬間、俺では本来し得ないはずの動きを体がやってみせた。

 買い物袋を食材ごと化け物の眼前に投げつけ、その間に化け物の股下のわずかな間に体を滑らせて包囲を脱してみせたのだった。

 

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