七記_黒岩老人と山神新
——同日、夜
ピッ、ピピピッ。
微睡の中に不快な音が聞こえる。
眠気の冷めない頭を使ってなんとか「仰向けになっていた体を半回転させる」という指令を身体に下す。次に暗闇の中でベッドの近くに置いたはずの携帯を手探りで探し、画面に表示されている「アラーム停止」のボタンをタップする。
…二十時十一分
どうやらスヌーズの音で起きたらしい。
時刻を確認すると、携帯を持ったままの右手を上げて伸びをする。いくらか寝たためか、頭の痛みの度合いは減退していた。
この時間にアラームをかけていたのは、今日は週一の診療所に行く日だからだ。終業後の二十一時〜二十三時の間ならばいつ来ても構わないということになっている。
俺はきちんと起きられたことに安堵すると、次第に体のうちからふつふつと空腹感が込み上げてくるのを感じた。
適当に軽食を作ろうと、寝室から起き上がり何気なくキッチンに向かったところで俺は気づいてしまった。正確には思い出したのだ。
…今日は冷蔵庫が空だ
本来は今朝の予定では帰りに買い物をしてくる予定だったのだ。しかし、そんな事情を腹は知らないとでもいうように「お腹すいた!」と全力でアピールしてくる。
もしかしたら、何かあるかもしれない。泡沫の期待を胸に俺は冷蔵庫の扉に手をかけた。
結果は惨敗。綺麗に食材が何もなかった。あるのは調味料だけである。仕方がないので、行きにコンビニに寄ることにする。懐が痛いが、仕方がない。人間というものは三大欲求には逆らえないものなのだ。実際、その一つ、睡眠欲に逆らおうとしてこの間倒れたばかりだった。
空腹のことは解決したことにして、ジャージから紺のチノパンに白Tシャツ、その上に黒のパーカーという服装に着替える。次に、現在勉強している参考書を数冊、リビングの机の上からマウンテンバックに放り込む。
「忘れ物は…ないな」
頭の中で持ち物を反芻すると、小物入れからICカードケース、家の鍵をポケットにねじ込んで家を出た。
「おう、おひさー」
診療所に着くと、待合室のソファに腰掛けている人物から声がかかった。
「久しぶり、蓮」
「やーっと、中間テスト終わったよ〜。めっっちゃ疲れた」
蓮は露骨に嫌悪感を顔に出す。できるけど、やりたくない。仕方がないからやる。蓮はそういう気性である。
「ほら、だらだらしないの。お爺ちゃんももうちょっとでカルテの整理が終わるって」
待合室の正面方向の通路からコツコツという音と共に、モノクロの装いの少女が目に入る。
「久しぶり、新」
「ああ、久しぶり」
少女はガックリと肩を落としている蓮の襟の後ろを掴み、引き上げる。それにつられて蓮は渋々上体を起こして、座面に深く座り直す。
「
「そういうのは問題じゃないの。貴方は取り組む姿勢が悪すぎるのよ」
両手を両太ももの間に入れて、前後に揺れながら抗議する蓮に、
「相変わらず騒がしいなぁ、お前たちは」
しゃがれた声と共に先の通路から黒岩先生が現れる。程なくして皺皺の手が俺の頭に置かれ、髪ごとをわしゃわしゃと揉まれる。
「先生も息災のようで、何よりです」
何とか「わしゃわしゃ地獄」から逃れて、言葉を紡ぐ。あの日は…歩夢の死んだ日はどうにもできない感情を何かにぶつけたくてため口で話してしまったが、現在は敬語で話すように心がけている。
軽口を交わしながら、待合室から休憩室に移動する。中はロッカーと、向かい合わせになっている二台の長机、四脚の椅子という最低限のものしかない。勉強をするには邪魔のない絶好の環境だった。
「いつも通り、俺が
「ん、了解」
「じゃ、俺、ゲームしてくる〜」
そういうと蓮は足元のリュックサックから長方形で赤と青のカラーリングの携帯機を取り出して、給湯室の方へ向かう。そこにある丸椅子に座ってゲームをするのが常だった。家だと、母親にとやかく言われるらしく、ここを隠れ蓑にしているらしい。
「本当に、蓮は。あれでなんで私よりあいつの方が成績が良いのかしら」
不平を呟きながら蓮の方から視線を戻し、彼女もトートバッグの中から必要なものを取り出す。彼女は今年、高校受験でその勉強をここでしている。何でも人の目がある方が集中できるようで、現に参考書とノートを広げて問題を解き始めていた。
…俺も始めるか。
足元のリュックを引き寄せて、付箋だらけで薄汚くなった教材を取り出した。
「先生、ここなんですけど…」
* * *
「ほいじゃ、今日はこの辺で」
先生の声でスマホの時計を確認する。時刻は二十三時四分。
「ありがとうございました、先生」
「また、来週な。おーーい。蓮、もう帰るぞ」
「はーい」
蓮はゲーム機の電源を切るとこちらにやってくる。
「それじゃあな、新」
「じゃーねー」
「また今度、お願いします」
診療所の前で黒岩家から三者三様の挨拶をいただいて、その日は解散になった。
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